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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

[加筆版] 選択という行為によって損なわれる「心の中の資源」とは何か?

2008-04-22 23:45:30 | 日記・エッセイ・コラム
□ 『人は選択肢が多いほど疲れることが判明
 ? だからネタ探しは重労働。能動的なネットが受動的なテレビに勝てないのもこのため? 』

>> http://rate.livedoor.biz/archives/50620004.html 
(「なんでも評点」 様)

※ソースを読まれていることを前提に進めます。

「選択(に至るまでの意思決定)は心の中の貴重な資源を消耗させる・・・」

私はこの手の統計実験の信憑性については懐疑的なのですが、ここでヴォース教授の言葉として引用されている「情報の選択」によって損なわれる「心の中の貴重な資源」とは一体何なのか、強く疑問に感じました。それは間違いなく表現上のすれ違いに過ぎないのだろうけども。


「選択行為」に負荷があるかどうか。これが検証対象の為に要素化されていますが、かいつまんで言うと、これは脳の活動負荷による疲弊ですよね。「頭を使うと疲労する。」のは、脳内物質の消費云々を解説する前に自明なことだと思われますが、では人間はどんな状態を「疲弊」と捉えるのかと踏み込んで考えてみると、この記事の根幹を暈している違和感の靄を払うことが出来そうです。


件の実験において証明が試みられたことは、単に「脳を使うと疲弊する」ということではありません。「私が選んだ/選ばざるを得なかった」という意識を脳にフォーマットすることで振る舞いに与える影響の解釈とも捉えられ、これは遠回しに「情報の取捨選択」という行為が如何に生活にとって負荷のかかる行為なのか、そしてそれが顕在化する程度を計ろうとしたのだと展望できます。インターフェース開発の見地からも、時代の要求に応えられる視点を擁するでしょう。

上記サイト様の言う「選択肢が多いほど疲れることが判明」というタイトルでは、実験の真意が言外に隠れてしまっていますが、その点について後述しフォローしている節もありません。「ネタ探しは疲れる」という、実験前の普遍的な「実感」に帰納するのみに留まっていますが、これは論者の評点が、最初から実験意義とは離れた所(寧ろ検証されたことに対して動機を遡っているだけ)にあるということに過ぎませんので、私がとやかく言うことではありません。


では、「選択で失われる心の資源」って?
人の世界観で「疲弊している状態」とは、一定の行動基準(その時々の)に要するエネルギーが消耗しているということ。さらに言えば、その基準が外部環境、及び他者と相対性を成す為に、「私(彼)は疲弊している」と評価することが出来るのです。情報の選択肢が多いほど、抽出にエネルギーを注ぐのは自明なことと思われますが、それは「選択」の動機や期待される結果の違いによっても大きく左右されるでしょう。 つまり此処で言う「心の資源」とは、人の行動規範を実現する余地を与える一定のポテンシャルの言い換えです。

あちらのテーマとなっているネットとテレビの比較については別の複雑な問題になるので触れませんが、(受動的な情報獲得手段として、テレビを必要としている?)どちらにしろ「情報を得る手順」において「消耗」が起こるのは普遍です。


例えば単純に「長い文章を書く」だけでも疲弊は起こります。「文章の題材」の選択が、書き手にどれだけの大きさの意味を持つか。その評価の為に脳はきっと大きく働き、疲労するのかもしれません。人生は無限の選択の連続です。無意識にカットする選択と意識的に行う選択によっても及ぼす影響は異なるでしょう。しかもそれは何らかのスパンで初期化、あるいは蓄積するスケールが階層化している可能性もある。「考え事をする=脳が働くことで疲労が生じるメカニズム」と「それはいつどのように回復するのか」については、また別次元での理論展開を必要とするでしょう。


[追記]

以上の論考は、「選択は疲弊を招く」という実験評価を前提として受け入れたものですが、私なりにもう一つ仮説をたてると、「選択肢から決定した」という意識が、関連する挙動に汎化するプロセス、つまり、決定項に係る行動について「やる気」の出力が制御される可能性も示唆されていると考えます。物理的精神的に「エネルギーを消耗しているわけではない」。この場合、人が疲弊を見せるのは「選択に至るまでの意思決定」が要因ではなく、その逆。「ある条件に支配された意思決定を行ったから」であるかもしれないのです。


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