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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

ミニコラム:「生産する義務」とは何か。

2009-10-30 08:26:01 | 日記・エッセイ・コラム
近年、斜陽に見舞われる世界経済の渦中、労働や雇用の在り方を見直そうという傾向にあって、以下のような文言を頻繁に見かけるようになった。

「人間は生きているだけで価値を消費しているのだから、生産を行う社会的義務がある。」


結論から言うと、これだけでは脅迫的市場中心主義を煽惑する詐術に満ちた観念としか言えない。我々が価値を選択・消費するのは生存が先立つが故である。「システマティックな必然」がそこにあるだけだ。自由意志によって社会環境への順応を「選択」する者が「多数」であるという事実しかない。

社会性への順応という枠組みの中での「生産する義務」の否定はしないが、実際の序列はこうだ。

1、生存の為の社会性の獲得
2、社会環境に置ける価値の選択
3、価値生産による享受関係の循環


つまり最初の文言は論理階層の交雑が甚だしい。「社会性に依て立つ義務」の上に立って「生存の在り方」を定義しようとするロジックの遡行が見受けられる。「社会性」を構成する「自己無矛盾性」という重要な公理が欠けているのだから、この文言の示す処の真理は既に破綻しているが、これを用いる者によって都合良く無視されているのである。

「生産」の背負う負の側面を見れば自明なことである。良きにつけ悪しきにつけ、文明が生者万人にとって絶対必要であったかどうか。「生存に伴う必然」と呼ぶのに相応くあっても、それが虐げ、食いつぶして来たものの重みを省みて「生きることの社会的義務」であるとは言えよう筈もない。


我々に課せられた「生産の義務」があるとすれば、それは「生産を制御する(生産を行う)義務」を負っていると表現すべきなのだ。


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