(IXY DIGITAL L2; Auto; Exp.±0; AWB; Evaluative.)
□ Tune of the Day
□ Chicane / "Chilled"
♪ Lost You Somewhere (Heliotropic Mix)
□ 無為と断罪
・ 労働しているだけで困窮者を救うことにつながる、という言説について (Arisanのノートさん)
>> http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070424/p1
・ 道徳的詐術とは何か (モジモジ君の日記。みたいな。さん)
>> http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070421/p1
私がここで環境問題及び世界経済に関して言及するときには、必ず『資本主義の功罪』を意識して、私たち自身の責を問う文言を発してきたつもりですが、この度まさに「我が意を得たり」とも言うべき言説が、上記お二方のブログにおいて展開されていたので、まずはそちらをご覧頂きたい。
「世界を覆う困窮に対して、豊かな人々には責任がある。」こんなことは分かりきっていることとして、「では、世界をより良くするには何が出来るか」といった場合に、「世界をより悪くする方向に加担しないことが出来る」という選択も考えられるでしょう。でも、もしかしたら、世界をより悪くする方向にいながら、困窮者を救済している者がいるかもしれない。単純化し過ぎかもしれませんが、こういった立場の人間は例えば、事業で成功して財を築きながら、余剰資産を環境保護や、そのための技術開発、またはあらゆる人道主義的基金への寄附などにあてている人々も含まれるし、わたしたちの大部分であるのかもしれません。
そもそも「資本の価値」は何処から発生するのか。遍く生産活動は、プロダクトの価値を段階的に付加していく非対称性エレベーターに乗っているようなもので、プロセスの初期段階で加工にかかるコストをオミットしていかないと、プロダクト自身が「価値を生む価値」を損なってしまう。ダイヤの原石を発見する者はダイヤと同等の対価は求められないが、それを必要とする社会の礎となる任意の生活の水準を担保しますよってことなのです。でも果たして本当にそうなっているのでしょうか?実際は、プロダクトの価値の通用する領域に下部構造へと向かう行使力が生じ、その中で何が行われているのかを人道主義に照らして顧みない、あるいは無関心でいることが、両者を隔絶しながら搾取する行使力そのものとなる。本当に深刻な道徳的詐術は、彼らに対して不当な不利益を被らさせる社会契約を選択せざるを得ない強制力として亡霊のように一方的に作用するのかもしれない。
ここに至って、資本主義を支えるはず道徳的通念の矛盾が決定的となる。経済活動を常に活性化させることが困窮者を救うことに繋がることはありえない。寧ろその逆で、困窮者自身がその労働によって、己を苦しめる構造のフレームをなすことになるのです。
とは言うものの、以前も言ったように、現状で依存している社会システムを直ちに放棄することは現実的でないし、何より人口の多い貧困層にとってのリスクが大きすぎる。また、搾取によって貧困に窮する人々がいなかった時代など世界は経験が無い。人間である限り、裕福な暮らしにベクトルが向かうのは困窮者であっても同様であり、その夢が活力となる。困窮者を救うとはどういうことか。それが生存権以上のもの、現代社会が保証する文化水準を目指すものなら、相互に正のフィードバックが生じてしまう。困窮者の生活を保護する為に、結果的に困窮者の存在が、現状では必要となっている。では、我々が謳う人道主義的救済の本質とは何でしょうか。
「実現されている不均衡」はあくまで「現時点での均衡」であることに違いない。経済で人の命を救えるということは、人の命を無為に扱ったことへの還元であり、環境保護ができるのは、環境を破壊してきたからという事実に循環する。しかしながら、果たして人間が違う道を辿れたかどうかを考えることは未踏の領域です。医療技術の発展、自然に拮抗する生活環境の実現。長い歴史をかけた自然環境との共変位の中で、己自身の中においてもあらゆる犠牲を生みながら繁殖を遂げました。その過程で、いわゆる社会認識、道徳的論理は、自己の帰属する構造を支えて来た功利主義や自己弁護の繰り返しによって、地理的、構造的な非連続面に局在性を持つようになった。つまり、自分の帰属する社会構造の良識は自らを助くが、社会構造を支える為に払われている犠牲は、その良識に反していることを無視しなければ、良識を良識とする認識を保持できない。これは人という種のあらゆる性質が導く進化型ネットワークの過渡期の一時の状態であり、この均衡の中で、人間はそれぞれ様々な問題に自覚的に、あるいは無自覚に晒されています。
しかし己を取り巻く関係性の中のみに利益を追求するbehaviorは、同時に自身を永久に罪の連鎖に縛り付けるだけでしょう。もし、その経済力を以て、誰かを救済しようとしている人が居るならば、彼にこう問うことができるでしょう。「それは罪滅ぼしですか?」「彼らを救うはずのその力は、誰の犠牲によって得られたものですか?」彼がそれを「救済」と呼ぶのなら、彼の「罪」は自覚されていなければならない。もはや私にはこう願うことしか出来ない。「不正によって得られた力は、いつか不正を正す。」ことを。「誰が」ではなくても、「誰かが」である。たとえば、私が無為に贅沢をしたお金で、利益を得た誰かがどう振る舞うか、その振る舞いの由来は何か、社会が議論を重ねた認識だろうか、そういうことなのです。
*・・・人道主義を善とするか、人命を資源とする見方の是非は、また別次元の議論が必要となる。ここでは断りなく人権主義的立場を取っています。
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