中学生の頃、初めてフラクタル幾何学に関する書籍を読んで、ある種の啓示を受けました。それからしばらくの間、その本で紹介されていた自己相似図形のフラクタル次元の計算方法で、色んな物の次元を計って遊んでいた時期があります。今思えば、あの頃の経験が現在の自分の物事の考え方を大きく規定してしまったような気がします。。
計算の仕方は至って簡単。
ある図形が自分と同じ形状の図形を最小単位として、M個の組み合わせで再現可能であり、かつその最小単位が元の図形の1/Nの縮小ならば、相似次元は[logM/logN]で計算されます。
例えば正三角形や正四角形は、その2分の1(1/2)の大きさの正三角形と正四角形を四つ組み合わせて再現できるので、[log4/log2=2]で2次元。立方体は縮尺2分の1の立方体8個で再現できるので、[log8/log2=3]で3次元となります。
このような自己相似形のうち、(追記:自己相似でないフラクタルもあり、その定義は曖昧。一般にハウスドルフ次元>位相次元の場合であり、完全な自己相似形はミンコフスキー次元と等しくなる。)相似次元が整数にならないものが一般的にフラクタル図形と呼ばれます。自然界に見られる形状(*木の枝の分かれ方、氷の結晶、貝殻の模様など。星や惑星が、現時点にあって概して球形(私たちにとって)を取るのもそう)の多くはこのパターンをとります。目に見える形だけでなく、動的なパターンも同様に記述可能です。(ex.最も有名なマンデルブロ集合は、f(z)=Z^2+C {* z=x+yi,C=a+bi,これを展開して実数部と虚数部をそれぞれZx、Zy軸にとる。Cは複素数パラメータ}という式の、複素数平面上での反復写像の描画プロセスとして顕現します。色分けされた領域は計算回数、無限大への発散速度を各境界毎に表現したもの。)
自然界におけるフラクタル構造の現出は、効率性という観点から、その出自とする見方が強いですが、私はその立場をとりません。効率的かどうかの評価は、実現された世界におけるパースペクティブが後付けで行っているに過ぎず、自然がその形を「選択」するのではありえない。環境に適合するというプロセスではなく、環境との共変位の中で必然的にそうなったはずです。(*これは捉え方の問題で、形が「効率性を求めた結果」なのではなく、効率性のある形状が確率的に分布する{効率的な形が、ある割合で系統的に現出するプロセスが繋がる[ex.環境に適応しやすい遺伝情報の繰り込み等]}とまで断らないと、認識に紛れが生じる為。)
これはフラクタル幾何学のほんの触りでしかないのですが、ここで踏み込んで考えてみると、宇宙になぜ「形」があるのが不思議に思えてきませんか?「形」は静的に「そこにある」のではなく、ある種のアルゴリズムに基づいて絶えず「そこに」生成されているのではないかという、極めて量子力学に近い考えに繋がることを、子供ながらに感じたことがあります。(*認識的に分類可能な規則性が混在するとしても、自然がある動的アルゴリズムを内包するなら、いくつかの数学的挙動をトレースするのは必然とも取れる。)そして現在においても、最先端の複雑系研究が向かい合っているのは正にそういうことで、わたしたちは未だ答えとは遠いところに居るんですよね。
もう一つ。
ある島の王様が、巨人と小人、そして普通の身長の人間の三人それぞれに海岸線の長さを測量させたら、小人の測った海岸線が最も長くなるという結果が得られたと言う例え話があります。フラクタルな図形は、その外縁に襞を持つため、測量者の歩幅が狭ければ狭い程、海岸線は長くなるのです(有限の境界に無限を織り込んでいる)。これは、測る人にとって意味を持つ「有効な長さ(襞を飛び越えてしまう)」が、社会的ネットワークで共有されている「自然界の認識」だということを思いださせてくれます。(*言語や図、音声といった、人間が人間との認識を共有するために外界に刻む記号は、信号の振る舞いをグリッドに沿って制御するための『マーカー』のようなものです。)
私が「パラダイム」より「パースペクティブ」という表現を好む理由もここにあります。つまり、人間の感覚が捉える宇宙は、離在する要素を繋ぐ連続面にあり、その外にあるのが「リアプノフ時間系」だと定義できる可能性もあるかもしれません。「誰にとってのカオスなのか?誰にとってのオーダーなのか?」ここが重要なのです。
生命現象は、秩序とカオスが混ざり合った状態の中で、その境界に挟まれた「カオスの縁」で顕現されているものだという認識があります。この状態は、計算理論的にはセル・オートマトンのクラス4(Stephen Wolframによる分類)で観測されます。(ごく単純な原理の差異が、特定の条件下での振る舞いと相を決定する。)人工生命研究において、カオスの縁にある領域は、相の中において計算密度が非常に高くなっていると帰納的に立証できることから、わたしたちの意識を生む「脳」も、秩序からカオスへと向かうポテンシャルの中で相転移的に「個体」を媒介している機関ではないかなーと考えられます。
そのうち、人間の認識の飛躍によって、「複雑系」を「複雑系」として捉えられなくなるパースペクティブが生まれてくるかもしれません。私たちが探っているのは、全て私たち自身の振る舞いに関係のあること。人は人になりかわる存在でしかないように、そのとき人は、人ではなくなっているのかもしれません。
*・・・追記事項、加筆部位。
このエントリは、
段階的に加筆していくことを前提に書いたものです。
マンデルブロ集合とかそういうのだと思いますが、数学とか幾何学とかを理解しないとよ~わからんと思います。しかしながら、そうは言ってもカオス、フラクタルについて学ぶ、理解する努力を放棄するものではありませんが。私は(あるいは私も)。