愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

湖南市岩根 六地蔵磨崖石仏

2011年11月16日 | 石仏:滋賀

湖南市の岩根山南裾に有る岩根小学校は以前紹介した国宝善水寺近くに在って、付近は大小さまざまな磨崖石仏が多く見られる土地です。

小学校脇を下る谷川沿いに新しく造られた道路が伸びていて、その左手山裾に写真のような背の低い横長の岩があり六体地蔵が彫られている。

横幅約3m弱、高さ約1m、向かって右端に長方形で垂直な長方形を穿ちその奥壁に六対地蔵を刻み出し、これもやっぱり磨崖石仏。

像高30cmにも満たない六体地蔵がまるで首と胴体だけの「こけし」宜しく並んでいる・・・・此処まで簡略化されてしまうと意匠のひとつとしてしか捕らえられ無くなってしまいそう。

石の中央部には殆ど岩に溶け込んでしまってるような合掌坐像仏・・・、

石が白っぽく新しく見えるのは道路を新設する際、移動序でに水洗いでもしたのだろうか??

無理やりにつけた涎掛けがちょっと可愛いけど、もう永らく人も来ないのか?ひっくり帰った湯飲みや、花の無い花立がむなしい・・・・・・。

此処は古い墓の入り口だったのだろうか・・・直線意匠が目立つ近世の石仏さん??。

撮影2011.10.26


滋賀竜王町 稚児ヶ谷地蔵磨崖石仏

2011年11月15日 | 石仏:滋賀

雲冠寺(うんかんじ)跡から鏡山山頂方面に向かい、途中「稚児ヶ谷地蔵 」の有る案内板通りに尾根道下って行くとちょうど地蔵磨崖の有る岩の上方で道は途絶える。

前方は道無き急斜面、その下方に有る大岩の廻りこんだ前面に石仏が刻まれているという・・・。

 

急斜面を転び落ちないように慎重に降りていくと・・・

今にも崩れ落ちそうな大岩、もっと上部の尾根道沿いから滑落してきて此処でとどまったものだろうか??(こんな急斜面の途中に山道があったとは考え難いが・・)

下方側から見る巨岩は今にもすべり落ちそうな危うさ・・・。高さ約5m、幅約3mと云ったところ・・・

その中央下部にここでもあの将棋の駒のような・・・・、此処では深い彫りく窪みを造り、蓮弁に立つ地蔵菩薩立像を半肉彫りで刻み出している。

全高約1m、像高60cmばかり、この地蔵は前記の地蔵より像容は優れている。

銘など探して見たが肉眼の範囲では見つけられなかった。

この近く湖南市の少菩提寺跡の閻魔石仏も同じような五角形に刻まれていてその特異性が際立っているが、他では見かけないのでその関連性が気に掛かる。

撮影2011.10.26


滋賀竜王町 雲冠寺(うんかんじ)跡 阿弥陀三尊磨崖石仏/他

2011年11月14日 | 石仏:滋賀

滋賀県湖東南部 南部域の竜王町に位置する鏡山は古来、新羅からの渡来人「天日槍(あめのひぼこ)」の持ってきた八宝のうち、鏡をこの山中に埋めたされる山で、古くから信仰の山としてあがめられている。

そんな山頂近くには推古天皇の勅願所として聖徳太子が創建したといわれ、後「信長の焼き討ち」に遭い再建される事無く廃寺に成ってしまった「雲冠寺(うんかんじ)」跡が今も山中にあり、2~3小さな磨崖石仏も有ると言うので訪ねてみました。

薬師地区の住宅地奥にある薬師登山口から登山同に入り歩くこと約30分で鳴谷池という一休みするにはもって来いの場所に出ます。

この先迷うことの無い整備された遊歩道を約30~40分登ると雲冠寺跡の標識がありその指示通りに登っていくとこの石仏さんがお出迎え。

高さ70~80cmの自然石に特徴の有る五角形光背彫り沈め連弁に立つ形式化の進んだ地蔵立像を薄肉彫りで刻み出している。

顔容にもこれと云った特徴はないが何処と無く素人ぽさの有る石仏です。

此処から一段登った台地にはこの磨崖の阿弥陀三尊石仏。

緩斜面に立つ大石の正面にやっぱり将棋の駒のような五角形の浅い彫り窪み。

彫りくぼめの高さは1m足らず、中央上部には小さな二重蓮弁の上に立つ阿弥陀如来立像??

総高50cm足らずの大きさゆえ手印など詳細までは不明です、脇侍の観音、勢至菩薩は中尊両脇下方にそれぞれ立っている。

いずれも形式化の進んだ像容・・・・、両石仏共に同じような五角形の彫りこみの中に刻まれていて多分同じ頃の像立ではないだろうか??

信長の焼き討ちが元亀二年(1571)、それに相前後した頃の像立では無いだろうか??石仏に火災に拠る影響は認められない。

雲冠寺跡の石組みは山肌にへばりつくようにあちこちの斜面に残っていて、確かに此処に寺があったことを物語っています。

撮影2011.10.26


湖南市 善水寺不動磨崖石仏/他

2011年11月13日 | 石仏:滋賀

湖南市の岩根山(十二坊)の中腹にある善水寺は和銅年間(708~715)元明天皇勅命により鎮護国家の道場として草創された名古刹。

国宝の本堂や多くの国宝仏を保有する隠れ寺としても知られている。

駐車場に車を停めて本堂わきの参道をブラブラ下っていくと眼下に観音堂が見え、その奥の大岩に小さな不動明王が刻まれている。

高さ5m、幅7~8mにも及ぶほどの大岩のずっと上部、見上げなければ見えないような位置に申し訳程度の不動明王立像が刻まれている。

これ以上の撮影ポイントも無くこうして仰ぎ見た写真しか手に入れることは難しいが・・・、像高約50cm一応憤怒相はしているものの、どこかマスコット人形のように見えない事もない。

像の右に銘があり文亀3年(1503)室町中期の像立だとか。

折り返し今来た参道を左手に少し登れば簡素な地蔵堂が在りその脇にも小さな磨崖の地蔵さん。

正面が丸みを帯びた三角頭の自然石の中央を深く舟形こ彫り沈め蓮台に立つ通常型地蔵菩薩を刻み出している。

像高約60cm、これと云って特徴の無い単純な彫り、コケ類の付着や劣化もあり像容はイマイチ良く解らない。

参道脇多分工事で掘り出されたで有ろう無数の小石仏が打ち捨てられたように置かれていた。

撮影2011.6.19


滋賀湖南市 正福寺の石仏

2011年11月12日 | 石仏:滋賀

正福寺は野洲川とその北側、菩提寺山南裾に細長く並び建つ古い集落。

奈良時代聖武天皇の勅願により良弁が開山したと伝えられる七堂伽藍を完備した古名刹の寺号がそのまま集落名になっている。

 七堂伽藍は例のごとく織田信長の兵火により悉く焼失したが後中興され浄土宗念仏道場として今に至っている。

この寺の寺僧墓に有るという鎌倉期の阿弥陀三尊石仏を訪ねて此処を訪れたが、最早遭うことはたがわず、住職の話に拠るともう20年ばかし前盗難という不幸に見舞われ忽然とその姿を消してしまったという・・・・・・。

古い写真で見る限りはさぞかし立派な石仏で在った事が伺えるが・・・、なんとも罰当たりも居たもんで、そういう話を聴くにつけ石仏ファンの僕は愕然とする。

そんな境内の覆い屋内にある一石六体地蔵です。

棺台を思わせるような蓮弁を周りに刻み込んだ大きい角台石に載る、一石六体地蔵で上下に三体づつを二段に刻み出している。

像高約40cm、風化磨耗が進み像容も詳ならず、近江では余り見かけないような・・

自然石の上部に小さな舟形光背を彫って・・・・

 小さな小さな定印阿弥陀坐像・・像高30cmにも満たない。

こんな磨崖も・・・、向かって右から阿弥陀坐像??地蔵立像??左端は何が何やら状態・・、良く解りません。

多分近くから此処に移動し来たものだとは思いますが・・・・・。

しかしやっぱり、かってこの寺の寺僧墓に在ったと言う阿弥陀三尊に出遭ってみたかったけどなあ。

撮影2006.4.9:2011.6.12


近江八幡市 延光院阿弥陀如来石仏/宝塔

2011年11月11日 | 石仏:滋賀

近江八幡の島町区は琵琶湖東岸穀草地帯のど真ん中、琵琶湖とその水郷地帯に囲まれた水田地帯です。

島町区の奥、琵琶湖と隔てる山裾集落に有る本堂が真新しくなった延光院本堂の前庭に並び立つ阿弥陀如来石仏と石造宝塔です。

阿弥陀如来石仏は高さ1.1mの花崗岩を舟形に加工し、蓮華座に座す像高約80cm、厚肉彫りの定印阿弥陀坐像を刻み出している。

像全体に風化磨耗が加わり目鼻立ちは、はっきりしないものの良くまとまって難が無い。

その分独自の特徴が見出せなくも無いが、どこか比叡系石仏の影響が見られ、あの比叡山山裾の八講堂阿弥陀石仏に何処と無く良く似ているような??

力強さが衰え形式化の始まった南北朝初期の像立だといわれています。

傍らに建つ小ぶりながら美しいシルエットの宝塔は鎌倉後期の徳治二年(1307)の銘を持ち近江八幡市の文化財指定。

撮影2011.6.24


滋賀栗東市 廣徳寺不動明王石仏

2011年11月10日 | 石仏:滋賀

栗東市の南西部 大津市と接する湖南アルプス竜王山山裾に隠れ里のように走井集落があり、その昔には山中に有る古刹金勝寺への参道が通じていたようです。

そんな集落を流れる谷川をどんどん遡っていくと真新しいコンクリートダムがあり、その上手の山肌に大きな杉の木が見える。

杉の木の根元には大石が在って簡素な覆屋が掛けられ、正面にこの不動石仏が刻まれて居る。

かってこの前には金勝寺へと続く参道でもあったのか不動像の傍らには廿九丁の文字が刻まれ丁石の役目も果たしていたのだろうか??

不動明王像は正面を荒削りに整え、内に像高76cmの中肉彫り。

右手に利剣、左手に羂索を持つ通常型。

厳しさの中にも落ち着いた雰囲気を持ち、荒々しさは余り感じない像容です。

磨耗風化も進みコケ類の着生もあり詳しくは解りませんが南北朝期の像立。

走井集落に有る廣徳寺石造不動明王として栗東市の文化財指定。

撮影2011.6.24/10.30


滋賀栗東市 狛坂寺跡磨崖石仏

2011年11月09日 | 石仏:滋賀

つい先だって、韓国から帰りどうしても又この磨崖石仏に出逢いたく成って訪ねてみたので新しい写真を加えての再UPです。

滋賀県の湖南アルプス金勝山には、わが国屈指の磨崖仏である狛坂寺跡磨崖仏があって、完全な姿で残る本格的な磨崖仏としては我が国最古(平安初期)のものです。

近江は、古代朝鮮半島からの渡来人が移り住み、様々な文化を伝えた地で、日本の古代の石仏や石塔の石造美術は、朝鮮半島の百済や新羅の国々との交流や渡来人の活躍によって生まれたものであるといっても過言ではない。

道の駅「こんぜの里りっとう」から、表示板通りに、山道を車で登っていくと、やがて突き当たり、そこにハイキング者用の駐車場が用意されていてる。

<前回には工事中だった新名神この山を引き裂くように貫いている>

ここから整備されたハイキング道を歩いて、この石仏を訪ねることになる。

ハイキング道は景色もよく、さほどアップダウンがあるわけでもないので、誰にでも簡単にいけますが、片道約1時間は歩かなければなりません。

途中何体かの石仏に出会いますが、それは後日に紹介することにします。

表示板によると狛坂寺は、弘仁年中(810~823)女人禁制の金勝寺の別院として創立されたと言われていて、明治はじめまで存続したらしいのですが、廃仏毀釈の影響か、廃寺となったようです。

狛坂磨崖仏は、沢のような崖道を下がりきった少しなだらかなところにあり、思わず感歎の声を上げずにはいられないほどの、大きさと、優美さを備えもっています。

付近は廃寺跡らしく石垣や小石仏もところどころ見られ、こんな山中に栄華盛衰を見る思いがひとしおな場所です。

この磨崖仏は、、やや傾いた高さ約6m、幅4.5mの巨石に彫られていて。主尊の如来座像は像高約3m、その脇侍(菩薩像)2体は約2.3m、さらにその上部に三尊の座像2組とさらに、三菩薩立像が見られます。

正面左手脇の別石には蓮華座の三尊像があり、この3体合わせて全部で、15体の素晴らしい石仏です。

なんと言っても特筆すべきはこの主尊の像容、日本では他に見られない独特な手印を持ち格狭間(こうざま)入りの須弥座の上に結跏趺坐、裳裾を見事にまとめあげて居る。

これは韓国慶州、南山神仙庵(シンソナム )磨崖石仏と相通ずる点が多い。

勿論この石仏を作った人たちは渡来新羅系の人々であろうと言われており、奈良時代後期の頃に造られたと言われています。

手尊の両脇に立つ菩薩像はともに腰をくねらせその顔に笑みを浮かべています。

向かって左手、別石の三尊像はまるでそのままミニチュア化したような感じを受けます。

「狛」は、朝鮮半島とのつながりを今に伝える地名で、僕の住む山城にも同じ狛のつく地名があって、高麗廃寺跡もあり、何らかのつながりがあったのかも知れないと思うと、感慨一入の思いがしていつまでもここで、この石仏に見入って居たかった。

1000年以上もこの地にあって今尚激しい劣化風化も無く、素晴らしい像容を見られるのはこの像が永らく覆屋に護られ、大切に信仰ていたのでは無いだろうか??

帰り道がきついのをすっかり忘れさせる素晴らしい磨崖石仏です。

撮影2005・12.8/2011.10.30


慶尚北道慶州市 皇龍寺址西、残欠塔身石仏

2011年11月08日 | 韓国 石仏:史跡他

皇龍寺の広大な寺址西側空き地に打ち捨てられたの様に置かれている塔身の四天王像です。

去年、此処の近くを通って気に成って仕方なかったので今年はどうしても寄ってみたかった。

これといって何も無いだだぴろい空き地にこの塔身と笠部の残欠それに片方を失った幢竿支柱が取り残されたように建っている。

それこそつわものどもが夢の跡だと言わんばかりに・・・。

<巨大な三尊像の基壇石>

皇龍寺は新羅王朝の国家プロジェクトとして建てられた巨大寺院でその規模は東洋一だといわれているが高麗蒙古の侵略に灰燼と化したようです。

初層部だと思われる塔身に刻まれた四天王像 ・・・ 皇龍寺西回廊外に在って付属施設の遺物でしょうが??

それ程大きな石塔ではなかったようで、像高も約50~60cm・・・

しかしどの像を見ても新羅石造美術の素晴らしさが充分伝わる塔身四天王像です。

これにて今回の韓国シリーズはひとまず終わり・・。

撮影2011.10.2

場所

スカイビュー


慶尚北道慶州市 慶州国立博物館の石仏/他-3

2011年11月07日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州国立博物館の表門から一番奥まった野外展示場に有る石造物群から・・・・。

中でも一番大きく聳えているのは仏国寺の風変わりな石塔ですが・・それはレプリカなのでさて置き、今ひとつ国宝第38号指定の素晴らしい三層石塔があります。

この石塔は1975年、慶州市東部郊外に有る一大観光リゾート地、普門湖から更に上流の徳洞湖に注ぐ徳洞川上流域の徳洞ダム建設により水没の危機に瀕していた高仙寺址に在ったもので、1977年此処慶州博物館に移設されたものだそうです。

ところどころ傷みは有るものの規模、形状ともに見事な三層石塔で高さ10.2m、統一新羅初期(7世紀末)の典型的な石塔だとされています。

基壇塔身には何の彫刻もありませんが・・・、四石を組み合わせ、見事な技術で大きな笠石を造りだしています。

こちらの金剛力士像(仁王像)は、あの三層模磚石塔の有る芬皇寺(ブンファンサ)近くの寺址に在ったものだそうです。

高さ約1.5m、やっぱり石塔の扉石だったのでしょうか?芬皇寺の扉石仁王像と同じ形状をしています。

阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)なのでしょうが??どちらがどうなのかは判断し兼ねますが随分と表情は違います。

こちらはちょっと変わった塔身?

四方に二体ずつの僧形立像を配している。

建物脇に一列に並べられた首を無くした石仏像・・・・、

その多くは芬皇寺の古井戸から発見されたとか・・・・。

戦禍や儒教の仏教弾圧の餌食と成ったもの言わぬ石仏たち・・・・、惨たらしいけどこれも現実。

こうして難を逃れた石仏も居るようですが・・・・・、殆どは像高1m程の丸彫り如来座像。

これは光背が有るだけで難を逃れたのかも??

 

傍らには夥しい数の石造品の残欠・・・・・。

此処慶州は石造美術ファンには何日居ても飽きないところです。

撮影2011.10.2


慶尚北道慶州市 慶州国立博物館の石仏(塔身仏)-2

2011年11月06日 | 韓国 石仏:史跡他

国宝エミレの鐘脇の野外展示場に置かれていた石塔、塔身仏の数々です

入り口を入って石仏とは反対側、相当量展示されていて見事ですが僕の目で選んでみました。

日本ではこれほどの石塔基壇にはお目に掛かった事が無い。

見事な彫りの四天王、像高は約1mぐらい。

残念ながらどれがどれだか僕には見分けがつきません。

こちらは妙に艶かしい感じさえする仁王像 

こんな仁王でも護りに役立つのだろうか??手が四本あったりして仁王では無いかも?

こちらは仏像の刻まれている塔身部。

如来型にも見えるが塔身に立像も珍しい

一面はすっかり削ぎ落とされている。

こちら通常如来型坐像の塔身部

これはかなり略式化された彫りになってます。

まだまだ一杯あったけど切が無い。

撮影2011.10.2


慶尚北道慶州市 慶州国立博物館の石仏

2011年11月05日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州国立博物館前庭に置かれた三体の石仏です。

最近このように三体だけに並び変えられたようですが、以前はもっとたくさんの石仏がこの付近ににも並んでいたようです。

僕が此処を訪れた日はちょうど日曜、以前は有料だったこの博物館は整理券だけの無料開放、韓国各地から慶州を訪れた人たちでごった返していました。

先ずは一番目につく大きな仏頭

博物館背後に連なる南山の鉄瓦谷(チョルアゴル)からここに移されたものだとか・・・

仏頭は高さ153cm、統一新羅8~10世紀のものだと云われていますが体躯は見つかって居ないのか在りません。

大きな肉髻(にっけい)と白毫(びゃくごう)が目立つ如来頭部ですが果たしてどんな体躯だったんでしょうか??

体躯が在ったとしたら全体像を見てみたいけど・・・・・それは叶いそうにもありません。

鼻がすっぽり削がれているのは、その昔、韓国には石仏の鼻を落として煎じて飲むと子宝に恵まれるという迷信があり、子供がどうしても欲しいという人たちの思いが石仏の鼻を削ぎ落としたという・・・・。

なにやら哀しいけれど・・・・儒教の仏教弾圧に旨く利用されたのかも???大きい鼻は偉大な力を発揮するのかも??

三体のうち真ん中に立つのがこの菩薩像・・・如何も頭部が少し不自然に前に傾いて見えます。

蓮華座の上、さらに蓮弁を造りその上に立つ高さ約3.8mも有る大きな観音菩薩立像。

以前から頭部は博物館に、体部は此処からそう遠くない衆生寺(チュンセンサ)前の水田に放置されていたものだという。

この石仏も大きい白毫(びゃくごう)の穴が目立ち、やっぱり鼻はぺったんこ・・

統一新羅様式の8世紀の像立。

これが三尊仏の脇侍仏陀としたら中尊はいかばかりだったのだろう??

最後の一体は妙に紅っぽい石の石仏。

古い写真などを見ると補修の痕が白っぽく目立ちますが現在旨く調整されて補修の痕が目立ちませんが少し綺麗過ぎるような??

南山東部山裾、月城、璋項里寺址に散乱していた物を集めて復元したもののようです。

半レプリカ状態だとは思いますが細部まで見事な彫刻が施された高さ2.5m、統一新羅8世紀の造立。

光背の化仏にはやはり顔を削られた仏達・・

月城、璋項里寺址には現在も塔身一層目に見事な仁王を刻みだした、宝物第236号指定の素晴らしい五層石塔が残っている。

撮影2011.10.2 


慶尚北道慶州市 狼山陵只塔(ヌンジタプ)

2011年11月04日 | 韓国 石仏:史跡他

此処は少し前に紹介した狼山衆生寺(チュンセンサ)の入り口近くあって、殆ど訪れる人も無く、広い空き地にこの塔だけがぽつんと在る。

昔から陵只塔または蓮花塔址と呼ばれ、つい最近までは崩壊した石材が埋没散乱していたようですが、ようやく最近になって復元されたようです。

先日紹介した宗武烈大王の長男、統一新羅のたて役者として知られる文武王の火葬施設だと推定されている塔です。

文武王は、死しても東海を守る龍になって倭寇から新羅を守るとの遺言通り、世界でも唯一だと云われる東海(日本海)の海中陵墓に葬られている。

<これは西面>

底辺約10m、高さ約5mの石積二段の四角塚・・・・その一段目の護石にはあの十二支神像が刻まれている。

護石は上部に庇のように突き出した蓮華紋石の下、東南西北四方に三支神ずつ配し合計十二支神像と成るが内三神は失われて現存しない。

付近にもまだ多くの石材が残り、建立当初は五重石塔であったと推定されています。

護石の高さ約1m、幅約50~70cm、枠取りの中一杯に各十二支神像が薄肉彫りで刻まれています。

永らく崩壊して土中に在ったものか?1300年以上経た今も尚勇ましい姿を良く残している。

正面南の真ん中には午・・・・

向かって左隣の羊かな

東側は2体が欠損中央にはこれ・・・卯

北側にはこの三体

これは戌??・・、黒化していて良くわからない。

西側には、この三体・・・・こちらの十二支神像は全て勇ましい戦闘衣を着けて武具を持つ。

 史跡の参道は採りいれた籾の天日乾し場と化していた。

韓国ではこれが当たり前。

撮影2011.10.3

場所


慶尚道北慶州市 太宗武烈大王之碑

2011年11月03日 | 韓国 石仏:史跡他

前回紹介の金庚信(キム・ユシン)墓より約1.5km程南下した仙桃山(ソンド山)麓に西岳里古墳群と呼ばれる陵墓郡があり、最前列、最大のものが新羅第29代王である太宗武烈王(金春秋、在位654~661)の陵墓です。

陵墓は、お馴染み韓国式の土饅頭で余り代わり映えはしませんがその参道脇に有る石造墓碑は韓国国宝第25号に指定される見事な石造美術品です。

太宗武烈王は、金庚信(キム・ユシン)と共にに唐の後援勢力のもと、三国統一の基盤を固めた人物でその業績を称える為、文武王の元年(661)に造立された。

表門を入ってすぐ、碑閣の中にこの国宝は誰の監視も無く据え置かれ、勿論直に触ることは出来ないがすぐそばまで近づき写真を撮ることは全くのフリーです。

有るべきはずの業績を称えた碑身そのものは現在欠損して見られませんが見事な亀跌(きふ)と、本来「碑身」の上に載る魑首(ちしゅ)が残されています。

碑身の一部は近くの民家から発見されたようですが現在何処に有るかは知りませんが??

「亀跌」と呼ばれる霊亀は像身3.8m、高さ約1m、幅2.5m首を掲げた全身には見事な彫刻が施され寸分のすきも見れ無いほどの完成度です。

当時同盟関係にあった唐の影響を受けたと言われるこの亀跌は群を抜く、再興傑作だと称されています。

本来「碑身」の載る位置には6匹の龍が3匹ずつ絡まって如意珠を奉じた「魑首」が据えられています。

高さ1.1m、幅1m、厚さ36cm。

左右側面に三体づつの竜頭を連ねた造形も素晴らしいと云うより他に言葉も見つからないほど・・・・・。

中央で断裂していますが見事に複雑な絡まりようです。

中央には武烈王(武烈王)の次男であるギムインムンの書であるという「太宗武烈大王之碑」の八文字・・・

全体的に力強く、緻密で統一新羅初期の写実主義様式の代表作と云われているのも納得できます。

明日香キトラ古墳のあの亀と龍が絡み合う「玄武壁画」をふと思い出した。

撮影2011.10.3

MAP


慶尚北道慶州市 金庚信(キム・ユシン)墓十二支神像

2011年11月02日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州市街の程近く、兄山江の対岸に有る新羅の英雄、三国統一に命を捧げたという金庚信(キム・ユシン)墓の護石に刻まれた十二支神像です。

金庚信(キム・ユシン)墓はどの王陵にも引けを取らない立派な円墳、周囲約50m、高さ3.5m墳墓を囲む石柵の中、基部に板石状の護石を巡らし十二支神像をそれぞれ刻み付けている。

南面を正面に向け、高さ約1m、幅約50cmの花崗岩石板いっぱいに枠を取り、枠内一杯に十二支神像を薄肉彫りで刻み出している。

正面南には午(馬)

次に巳(蛇)

金庚信(キム・ユシン)は西暦673年、78歳で死亡。

次に辰(龍)・・、どうにもこの影には困ったもんです。

東には卯(兎)

十二支神像はそれぞれに武器を持ち墳丘の護り神として刻まれている。

次には寅(虎)・・・・・、これが虎かと思うほど何故かしらおとなしそうな顔をしている。

この像だけが少し割れている。

次は丑(牛)、南から東北へと左回りに廻っています。

ちょうど裏側、北は子(鼠)

普段着の姿で武器を持つ十二支神像は珍しく、新羅中期以後には見られないようです。

次は亥(猪)・・・・、

戌(犬)はこれ・・・

ちょうど西側には酉(鶏)・・、犬の顔は優しいのに鶏は結構いかつい顔をしてる。

次に申(猿)・・・、全ての像がかなり高い表現力です。

最後は未(羊)、十二支神像全て欠けることなく1300年以上もこうして墳墓を護り続けている。

それはそれなりに結構良い保存状態です。

撮影2011.10.3

MAP