Neurology 興味を持った「脳神経内科」論文

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医者としての本居宣長 ―アスペルガー症候群説への異論―

2018年04月10日 | 医学と医療
【本居宣長に関心を持ったわけ】
津市での講演の機会を頂いたあと,松阪にある本居宣長記念館を訪ねた.本居宣長は,江戸時代中期に活躍した国学者である.私が宣長に関心を持ったのは,教師であった父がかつて「本居宣長全集」を熱心に読んでいたこと,記念館にある魅力的な展示物の写真をたまたま見たこと,そして宣長は医者でもあったことが理由である.小児科医と言われているが,今で言う総合診療医のように,あらゆる年齢の患者を薬箱を抱えて訪問診療していたようだ.

【宣長のアスペルガー症候群的特徴】

アスペルガー症候群は小児科医ハンス・アスペルガーにちなんで名付けられた発達障害である.症状は3つに分けられ,①反復性の行動・限局性の興味,②社会性の障害,③コミニュケーションの障害を呈する.とくに①は「狭い領域にまるで取り憑かれたような興味を示し,並べたり,分類・整理したりするのを好む」のだが,記念館の展示物はまさにアスペルガー症候群を想起させる.
まずご覧頂きたいのは,中国4000年の歴史を10 mの巻物に書いた「神器伝授図」で,なんと15歳のときに書かれた.細かくびっしりと書かれ,王統が断絶したところには赤線を引くなど,驚くほど緻密である.写真は私の好きな三国志の時代の拡大である.


次は17歳のときに書かれた「大日本天下四海画図」という縦1.2 m,横2 mの大きさの日本地図で,こちらも負けず劣らず緻密であるが,なんと1ヵ月ほどで作成された.


【しかし本当にアスペルガー症候群なのだろうか?】

本居宣長=アスペルガー症候群説は,精神科医岡田尊司先生が「アスペルガー症候群(幻冬舎新書)」の中で記載している.またインターネット上でもそのような記載を見つけることができる.しかし本当にアスペルガー症候群なのだろうか? 違和感を覚えたのは岡田先生が「患者に対しては愛想笑い一つ見せたことのない無愛想な医者だった」と書かれていることだ.たしかにアスペルガー症候群は社会性の障害(相手の気持ちや考えを察するのが苦手)や,コミニュケーション障害(感情や感覚を表現するのが苦手)を呈するので,そう思えなくもないが,国学の勉強から得た知識や世界観は医者としての宣長(医者としては春庵と名乗った)にも影響を与えたのではないかと思えたのだ.一見,アスペルガー症候群を思わせる模写したさまざまな古典の文献にびっしりと書き込みをし,細かい文字を書いた付箋を付けている様子は,本当に学ぶことが好きで,いろいろな工夫をしているよう努力家のようにも見える.


【なぜ蘭方ではなく漢方を学んだのか?】
もうひとつの疑問があった.なぜ宣長は当時先端の蘭方医を目指さなかったかということである.宣長の時代の医学は,伝統的な漢方医学である後世方と,復古医学と言われた古医方,そして西洋医学の蘭方の三つ巴の時代であった.実は宣長(1730-1801)は,杉田玄白(1733-1817)や前野良沢(1723-1803)とまさに同じ時代に生きている.なぜ宣長のような知的好奇心にあふれる人物が,蘭方を学ばず,伝統医学を学んだのだろうと不思議に思っていた.

本居宣長記念館の吉田悦之館長が書かれた「本居宣長の医業と学問」という小論文(日農医誌2017)を読むと,宣長は友人に宛てた書簡の中で「病を治すのは薬ではなく『気』だ」という医学観を示しているといると書かれている.病は医者が治すのではなくて,人間が生まれつき持っている「元気」が治すのであり,その「元気」を養護することこそ医者の行うことにほかならないというのだ.飽食を戒め,体を動かし,無用な心配を避ければ病気にならないという考え方であるが,これは宣長の国学における主張である「自然の重視」とか,「わが国には道はない.道のないのがわが国の道である」というものと重なっていると指摘している.つまり蘭方医学より,伝統的な漢方医学の考え方のほうがこの宣長の考えに合致したのかもしれないし,医学に対する考えが国学で学んだものにより影響を受けたのかもしれない.

【宣長は研究のために何を大切にしたか?】
前述の本居宣長記念館の吉田悦之館長にアポイントを取り,医者としての宣長について尋ねる機会を得た.時間をかけて丁寧に教えてくださった.医者としての宣長については不明な点が多いが,診療記録である「済世録」が残されており,容易ではないものの今後,解読が進められるだろうと仰っていた.しかし分かる範囲で読んでいくと,医者としては繁盛していて,かつ奉行のような偉い人の診察もしており,町医者としては成功していたのではないかとのことであった.当時の松阪には30人もの医者がいたことを考えると,前述のような無愛想な医者では,そんなに繁盛しなかったのではないだろうか?

 また吉田館長によると宣長が大切に考えていたことは2つあり,ひとつは経済的な基盤の確立であり,医業をしっかりと行ない家計を守り,その上で研究を行う行う体制を作ることであったそうだ.安定した医療収入は,妻と5人の子供を養うことを可能とし,さらに国学と言う新しい学問の自由を保障した.現在でも研究は,その基盤である研究費の確保ができないと継続困難になることをすぐに思い起こさせる.

 もうひとつ宣長が大切だと考えたことは,研究を引き継いでもらうということではなかったかと仰っていた.そして宣長の養子の大平(おおひら)が描いた「恩頼図(みたまのふゆのず)」を見せてくださった.「恩頼」とは,本来は神のご加護・お蔭のことだが,その観点から眺めた宣長の系譜である.何とも味のある不思議な図だが,上段中央には両親,その脇には師の契沖(けいちゅう)や賀茂真淵,そのほか孔子や紫式部などの先人や,ライバルの名前が挙げられている.この人たちのお蔭で宣長が生まれ,成長したという意味である.中段の膨らみは宣長自身の存在を示し,下段には子ども,弟子,著作の名前が並ぶ.これは宣長だけのものではなく,日本人誰にもあって,たくさんのお蔭をこうむって,累々とつながっていくのだなと思った.


【結局,宣長はどんな医者だったのか?】
 つまり愛想のない人間味を欠く医者だったのか,それとも源氏物語や古事記伝を読み解いた豊富な知識を背景とした人間味あふれる医者だったのかという疑問だ.この一番の疑問に関して「本居宣長―済世の医心―(高橋正夫著:講談社学術文庫)」を読むと,根拠は不十分ながら,国学の勉強から得た知識や世界観は,医師である宣長(春庵)に対し「確たる医哲学と高度な倫理観を与える」ものであったという立場をとっている.私も宣長はアスペルガー症候群的な特徴を持ちつつも,医者としても立派な人物であったのではないかと思いたい.
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