相模原障害者施設殺傷事件の容疑者は「重複障害者は生きていても意味がないので,安楽死にすればいい」と供述したという.これに対し,事件後のツイッターには,容疑者の犯行や動機を擁護するような書き込みさえ,複数見られたという.つまり犯人が語った言葉や考え方が,実は社会の深部に根付いたものであることを否定することはできない.では私たちの社会の底流にある,こうした思想を生み出す要因は何なのだろうか?
それは,障害者に対する偏見や嫌悪(ヘイトクライム;増悪犯罪)であり,障害の有無を基準に人の優劣を定め,優れた者のみが存在を許されるといった思想(優生思想)であり,経済的価値や能力で人間を序列化し,障害者の存在を軽視し,究極的には否定してしまう恐れさえある社会(新自由主義的な人間観)だと言える.優生思想は過去のものだという批判もあるかもしれないが,我が国において,わずか20年前まで,本人の同意なしに強制的断種(優生手術)を実行できる優生保護法が維持されてきたことは知っておくべき事実である.
医療依存度,介護依存度が次第に高くなる神経難病や認知症の患者さんの診療にあたる神経内科医は,決してこの問題から逃れることはできない.「なぜ重症の神経難病患者や認知症の在宅療養者に対して,一定の社会資源を再配分しなくてはならないのか?」という問いかけに対して,確固たる答えを持ち合わせていなければならないと思う.
西澤正豊前新潟大学脳研究所長は,この問題に取り組み,現時点で最善の答えと言える「ノーマライゼーション」の理念を,医師や医学生に長年教えられてこられた.「ノーマライゼーション」とは,1960年代にデンマークのバンク・ミケルセン(写真)が,知的障害者が施設において非人間的な扱いを受けているのを見て提唱した福祉をめぐる社会理念の一つで,「障害を持っていても健常者と等しく,当たり前に生活できるような社会こそがノーマルな社会である」という考え方である.障害がある人たちに,障害のない人びとと同じ生活条件をつくりだすことが「ノーマライゼーション」である.誤解をしてはいけないのは,「ノーマライズ」というのは,障害がある人を「ノーマルにする」ことではなく,彼らの生活の条件を「ノーマルにする」という意味である.
この考え方は我が国でも採用され,1993年の「障害者基本法」などに取り入れられた.しかしながら,日本では一般教育でも,医学生教育や医師の生涯教育でも,この基本理念が強調されることはほとんどなかった.その理由は,西澤先生によれば「日本人に馴染みにくい平等観」にあるという.分かりやすい例として,西澤先生はつぎの質問をよく医学生にしておられた.
「敬老の日に,地域の後期高齢者に一律1万円のお祝い金を配ることは社会福祉の政策として正しいか?」
日本人にとっては「皆が同じであることが平等である」ため,その効果に疑問を持ちつつも,文句を言う人はあまり出てこない.しかし,「ノーマライゼーション」の考えに立てば,本当に困っている人たちが,1万円で普通の当たり前の生活を取り戻すには至らないため,正しい政策とは言えないのだ.逆に「普通の当たり前の生活を取り戻すためとはいえ,特定の個人に過大の支援をするのは不平等なのではないか?」というのが日本人の考え方なのだ.言い換えると「ノーマライゼーション」が目指すのは「生活環境の平等」であり,日本人では他の人たちと同じであることが「平等」なのである.平等であることの基準が違っているのだ.
今回の事件を経験し,人間としての正しい有り様を,子どもたちに教育する必要性を多くの人は感じただろう.それが何かといえば,私は,昔,親や学校の先生から教わった「身体の特徴とか,病気といった,自分の努力ではどうしようもないことを理由に,ひとを差別してはいけない」ということであり,「障害者と健常者とは,お互いが特別に区別されることなく,社会生活を共にするのが当たり前だ」という「ノーマライゼーション」の理念だと思う.われわれ日本人には馴染みにくい平等観であることを認識した上で,一般教育および医学教育のいずれの場においても,繰り返し繰り返し,「ノーマライゼーション」の理念を説いていく必要があると思う.
参考文献:西澤正豊.「なぜ,神経内科医は神経難病者を地域で支える必要があるのか?」アクチュアル脳・神経疾患の臨床「すべてわかる神経難病医療」
それは,障害者に対する偏見や嫌悪(ヘイトクライム;増悪犯罪)であり,障害の有無を基準に人の優劣を定め,優れた者のみが存在を許されるといった思想(優生思想)であり,経済的価値や能力で人間を序列化し,障害者の存在を軽視し,究極的には否定してしまう恐れさえある社会(新自由主義的な人間観)だと言える.優生思想は過去のものだという批判もあるかもしれないが,我が国において,わずか20年前まで,本人の同意なしに強制的断種(優生手術)を実行できる優生保護法が維持されてきたことは知っておくべき事実である.
医療依存度,介護依存度が次第に高くなる神経難病や認知症の患者さんの診療にあたる神経内科医は,決してこの問題から逃れることはできない.「なぜ重症の神経難病患者や認知症の在宅療養者に対して,一定の社会資源を再配分しなくてはならないのか?」という問いかけに対して,確固たる答えを持ち合わせていなければならないと思う.
西澤正豊前新潟大学脳研究所長は,この問題に取り組み,現時点で最善の答えと言える「ノーマライゼーション」の理念を,医師や医学生に長年教えられてこられた.「ノーマライゼーション」とは,1960年代にデンマークのバンク・ミケルセン(写真)が,知的障害者が施設において非人間的な扱いを受けているのを見て提唱した福祉をめぐる社会理念の一つで,「障害を持っていても健常者と等しく,当たり前に生活できるような社会こそがノーマルな社会である」という考え方である.障害がある人たちに,障害のない人びとと同じ生活条件をつくりだすことが「ノーマライゼーション」である.誤解をしてはいけないのは,「ノーマライズ」というのは,障害がある人を「ノーマルにする」ことではなく,彼らの生活の条件を「ノーマルにする」という意味である.
この考え方は我が国でも採用され,1993年の「障害者基本法」などに取り入れられた.しかしながら,日本では一般教育でも,医学生教育や医師の生涯教育でも,この基本理念が強調されることはほとんどなかった.その理由は,西澤先生によれば「日本人に馴染みにくい平等観」にあるという.分かりやすい例として,西澤先生はつぎの質問をよく医学生にしておられた.
「敬老の日に,地域の後期高齢者に一律1万円のお祝い金を配ることは社会福祉の政策として正しいか?」
日本人にとっては「皆が同じであることが平等である」ため,その効果に疑問を持ちつつも,文句を言う人はあまり出てこない.しかし,「ノーマライゼーション」の考えに立てば,本当に困っている人たちが,1万円で普通の当たり前の生活を取り戻すには至らないため,正しい政策とは言えないのだ.逆に「普通の当たり前の生活を取り戻すためとはいえ,特定の個人に過大の支援をするのは不平等なのではないか?」というのが日本人の考え方なのだ.言い換えると「ノーマライゼーション」が目指すのは「生活環境の平等」であり,日本人では他の人たちと同じであることが「平等」なのである.平等であることの基準が違っているのだ.
今回の事件を経験し,人間としての正しい有り様を,子どもたちに教育する必要性を多くの人は感じただろう.それが何かといえば,私は,昔,親や学校の先生から教わった「身体の特徴とか,病気といった,自分の努力ではどうしようもないことを理由に,ひとを差別してはいけない」ということであり,「障害者と健常者とは,お互いが特別に区別されることなく,社会生活を共にするのが当たり前だ」という「ノーマライゼーション」の理念だと思う.われわれ日本人には馴染みにくい平等観であることを認識した上で,一般教育および医学教育のいずれの場においても,繰り返し繰り返し,「ノーマライゼーション」の理念を説いていく必要があると思う.
参考文献:西澤正豊.「なぜ,神経内科医は神経難病者を地域で支える必要があるのか?」アクチュアル脳・神経疾患の臨床「すべてわかる神経難病医療」