Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

初結ところの親爺さん方

2015-01-17 | 
木曜日夕方、山の上まで駈けた。先週火曜日とほとんど同じタイムだった。36分5479は殆ど誤差のうちで、登りに三組の人と合い、最後の一組であるMBXにも殆ど追いついたので記録が伸びるかと思った。しかし残念ながら、雪道の時と変わらず、歩数だけは十二歩だけ多くなっていて、結構ルート取りが成功したことになる。それでも35分台にならなかったのは身体が重かったからだろうか。下りの同じ64分9833歩で、こちらは歩数が大分少ない。雪道と違ってピッチが伸びたからであろう。それでも28分掛かっているのだから、登りでそれほど短縮が容易でないのは当然だ。

午前中は床屋に行った。前回は調べてみると十月下旬のことらしい。大分行かなかったのでクリスマスプレゼントも貰わなかったのだ。それでも予想外で、十一月はヒーター工事などに躍起となっていて、十二月は旅行があったからだろう。そのようなことが無ければクリスマス前に一度行っていた筈だ。朝一番で出かけたが、三人目の客となった。二週間の休みの後の再開日だからある程度は想像していたが、年寄りの年金生活者は早い。二人目は仕事前の職人の親仁だった。

髪結いの娘に、「前回のようにやってちょうだい。上手く行っているから」と注文すると、「横をほっそりとね」とよく分かっていた。安心して綺麗にやってもらえる。流石二代目か何か知らないが、素人とは違うのだ。恐らく今までやって貰った様々な理髪の中で一番技術力が高いと思うようになってきた。12,5ユーロほどだが、15ユーロ払っても最後まで鬱陶しくならないので素晴らしい。昔の理髪師とは違って美容師はバリカンの使い方が見事で、昔風の散髪技術は過去の遺物となってきているのかもしれない。なによりも私にとっては、鬱陶しくなるまで伸ばしておける期間が長いほど満足度が高い。そして気持ちが良ければ、耳に髪が掛からなくとも、早めに綺麗にやってもらいたいと思わせるぐらいが良いのだ。

その後、肉のロールと豚のタタールを購入して、タタールパンを食した。これとうどんが体を重くしたのだろう。夕食でロールとジャガイモを一緒にオーヴンに掛けて、グローセスゲヴェックスを合わせた。ゲオルク・モスバッハ―醸造所のフロインドシュトュッ2012年である。試飲の時に酸が弱く甘く感じていたので、新鮮なうちに飲みたかった。年末年始は余裕がなかったので今頃開けることになる。

口当たりはその記憶よりも酸が効いていて、直接的な甘みよりも果実風味を感じた。同時に酵母味が密度を高めているような感じで、多くの醸造所が比較的陥りやすいグロースゲヴェックス醸造法である。詳しくは説明できないが、どうしても長めの熟成期間などで酵母に触れる時間が問題となるのだろう。同じことをやっても技術の高い醸造所は酵母臭を感じさせないのはなぜか?

2012年のビュルクリン・ヴォルフ醸造所のゴールトベッヒャルを開けたが、こちらは流石に新鮮さが落ちていたが、酸が思いのほか効いていた。2013年産のレープホルツ醸造所のフォム・ブントザントシュタインも開けてみた。こちらは試飲の時にはあまり感じなかった蜂蜜香が分かるようになってきていた。上のガンツホルンでは一目瞭然だったのだが、徐々に熟成への道を歩んでいるのだろう。それでも2013年特有の良質の研ぎ澄まされた酸が効いていて、早くても美味いが、瓶熟成も期待できるというとても贅沢な2013年リースリングの特徴を出している。ビュルクリン・ヴォルフの2013年PC群と比較すると、清潔度つまり貴腐の混入で一クラス落ちて辛口としては例外的なレープホルツのリースリングである。それでも培養酵母のリースリングとしては立派なものである。



参照:
枚挙に暇のない杜撰さ 2014-10-23 | 歴史・時事
生の味付けのうまさ 2014-10-22 | 料理
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啓蒙されるのは誰なのか

2015-01-16 | 文学・思想
シャーリ・エブドの最新刊のカリカチュア―がエジプトのスンニ派から批判された ― イスラムの国で最高の文化を誇るシーア派のペルシャも批判した、世俗のトルコはカヴァーの画像のあるサイトを見れないようにして、大統領はPEGIDAとISISを同一視した。批判されるのは想定内であろう。トルコ語やアラブ語でも出版する確信的な行動である。それによって啓蒙されていない人々に何かを訴えかけることが出来ていると信じているのだろう。そうした希望がなければできない行為であり、ドン・キホーテ的な英雄行為である。

その記者会見ぶりや仕事ぶりを見て、我々啓蒙された近代人はその姿に感動する。そしてその雑誌のカヴァーの表現に全てを読み取る。そして連帯を誓うのだ。少なくとも何らかのものを表現したり、創造したりする人々は、こうした英雄的な活動を無視したり、第三者的に中立的な立場では報じたりできない筈である。

この件に関して文化欄が解説をしている。この預言者が誰のことを嘆いているか?と単刀直入に問うている。人殺しにか、命を存えた人にか、これならばあまりにも軽薄すぎる。それならば、残された人々にか、そのもの殺された人々にか?緑の背景はイスラムの色であり、希望の色であると分析する。我々世俗の人々にとっては、その穏やかな預言者はキリスト教的隣人愛に満ちていて、描くこと自体が問題としてもこれ自体が挑発などとは考えられないと確信するのだ。しかしイスラム社会の反応は「世界的な共通認識としての宗教的権威への尊重があるべきだ」と違っていた。そして、今回の事件を通して、預言者を描くことを禁止することの表現の自由の考察で落着するのではなく、宗教的権威にまたは不当な死罪に疑問を抱くところが問題になるのだとする。要するに預言者の具象化などは一つの軋轢でしかないとされる。

テレグラム紙は、そもそもカリカチューアの表現が攻撃の目標ではなくて、イスラミズムが夢想するモスリム対非モスリムの世界市民戦争が目標だと書いたようだが、そもそもイスラム社会での表現への制限は布かれていて全く繰り返す必要のないものであるとして、その事例を挙げる。西側のジャーナリストに対するもの以上に厳しく罰せられたり、凄惨な現状が書き連ねられる。カヴァー以外の内容の紹介もあるが、結局はこの表紙で語り掛けられたものは、我々の連帯へのメッセージであるとする結論に他ならないだろう。

水曜日IWJの生中継で辺野古ゲート前の闘争を見た。五六台のバスがやって来て、一時間半ほどで牛蒡抜きとなった。沖縄県警が行った反対派のゲート封鎖に対する強制撤去である。トレーラーがゲート内に入ると中での作業を阻止する方法がないらしい。夜の22時に遂行する抜き打ちの方法がとられた。どうしても市民の数が少なく、手薄な割にはかなり抵抗していた。大飯原発の時の抵抗運動との違いは、警察力を指揮する知事が市民運動の背後にあることで、警察権力の暴走を露わにしたことだろうか。その後、沖縄県知事の一言を観たが、「残念」としか漏らしておらず、県警に関しては一言も言及はなかったのではないか。東京の政府と沖縄の「自治政府」の間に対話がなされていない状況は異常であり、この状況からすれば東京の政府が独裁政権であることが明らかだ。諸外国がそのように認識していても、気が付いていないのは日本人だけだという指摘が木魂する。

なるほど、24時間体制で作業阻止を企てた100人ほどの住民や支援者は立派であるが、情報が流れて、メディアや二人の参議院議員が駆けつけているのにも拘らず数百人規模にもなっていなかった。学生などは幾らでも時間がある筈で、その示唆行為の価値つまり表現の価値を理解しているならば当然のごとく集合する筈なのだ。ここにイスラム社会との共通点がある。モスリムとして生まれ育って、その社会の中で一生を暮していると、なんら疑問も覚えずに、預言者の像に憤慨するのである。そして、そこでは日常茶飯に悲惨な人権の蹂躙がなされている。

これを許してならないとするのが西欧であり、こうした価値観を戦略として、世界を指導していくのである。新聞が書くように、今回のシャーリー・エブドの再刊で、更なる攻撃に晒されて、世界中でそれが流されて、さてなにが変わるだろうかとの問いかけがある。その通り、このカヴァーやこの雑誌の手法で啓蒙されるのは西欧人でしかない。ムスリムの反感を煽るだけかもしれない。それでもさまざまな方法を通して、我々の連帯を通じて、語り掛けていくしか方法はないのである。それは、ロシアに対しても、中共に対しても、日本に対しても全く同じことなのである。それがジャーナリズムと呼ばれるものなのだ。

毎日新聞編集部の見解などを読んだ。また今回の件は以前のデンマークのそれよりも判断を日本で難しくしているという論文も目にした ― 私の場合は全く正反対であった。前者は、ムスリムの心情を害したくないとする論調で、ジャーナリズムとは一切関係のない表明を編集者がしている。後者は、サイードの言葉などを例にとっての脱構造主義からの視座を想起させているが、まさしくこれが戦後レジームからの脱却と叫ばれるような社会の低脳化の典型に収斂されることになっている。一体日本人はなにを学んでいるのだろう?科学をどのように考えているのだろうと改めてその付け焼き刃の近代文化を確認することになる。文化人がこれでは、神道も天皇制などの扱いも明治の宰相の知恵の域を一つも出ておらず、まともな対話が出来ない元凶となっている。


今日の音楽:モーツァルト作曲「後宮からの逃走」



参照:
Um wen weint Mohammed?, Michael Hanfeld, FAZ vom 15.1.2015
己の文化程度を試す踏み絵 2015-01-14 | 文化一般
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
不可逆な我々の現代環境 2014-10-12 | 歴史・時事
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想
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殆ど痴呆で気楽な浮遊感

2015-01-15 | 雑感
少し遅い初夢である。船に乗っている。そこから小さな艀のようなものに乗ったかと思うと、次は舟遊びのような船になって、最後はカヌーになるのだ。なにか自身の経済を表しているようで、とてもデフレなのだ。しかしそれが特別な経験へと結びついていく。

どうも二人乗りのカヌーで、何故か後ろに乗っているのは山岳ガイドの舟橋氏である。こちらは慣れないものだから舵取りお願いすることになるのだが、いつの間にか飲食の出来る小舟からカヌーになったことをぼやいているうちに、急流になっていくのだ。それでも舵は任せてあるので安心なのだが、滝の上にやって来て、そのまま落下口の上から前方へと勢いよく離陸していくのである。そして、前後で「思ったより高い高度で離陸してしまいましたね」という話をしているのだ。

そこからはよくある空中遊泳ものとなるのだが、今回のものは丁度パラグライダーのように途轍もなく着陸までが長く、とてもリアルな地上風景を上から観察するのである。なんといっても離陸高度が高かったので、そのまま風に流されて海へと出てしまうのだが、本来はカヌーに乗っている筈だからベストを身に着けているかどうかを改めて確認する必要などないのだ。そしてズボンはシャツはなどと普通の舟遊びの服装であることを確認するのである。そしてあまり沖まで流されてしまうと戻ってくるのが大変だと心配しているのである。この船はたとえヴェテランが舵を握っていてもグライダーのように進行方向やスピードなどは全く動かせないで、気球のように風任せで、高度も風船のように思うようにならないで浮遊しているのだ。

乗組員が出来るのはひっくりかえらない様に左右にバランスを取って、上手に着地もしくは着水するしかないのである。砂浜を過ぎて心配していると、沖に出ると急に大気が冷えて若干高度を落とすとともに海風が吹いて、陸地への方へと帆先を変えた。これで一安心だと海岸線を過ぎて、砂浜に戻るとこれが結構高度が高くて少なくとも二十五メートル以上はある。そして浜を中に入るとまた山風が吹いて来て、横にと進行方向を変える。これで海岸線に沿って進むことになる。

場所によっては入り江が入り組んでいるので、ホテルが出てきたり、ヌーディストビーチの上を過ぎたりする。沖に向かっているのではないので一安心しているが、安全な着地場所を探さなければいけない。なんといっても問題は一向に高度を下げないことで、その浮力からすればなかなか地面には届かないので着地準備態勢に入るどころか、何時までも着陸できないので、焦る気持ちも出てくるのだ。結局そうこうしているうちに目が覚めると五時半だった。

前日にスキーツアーのことでメールしたりとか、先日の横風の中で着陸するジェット機の映像を見たりで、これに繋がる話題は盛りだくさんなのだが、それが一つの夢物語になってしまったのには驚いた。なによりも浮かび上がってしまって地面に足がつかないという感覚は今までに経験したことがない。大抵は降下したりのスピード感は浮遊ものにもつきものだと思うが、それが全くないのである。兎に角ふわふわと風に吹かれて浮いているのだ。なにか益々お気楽な夢を見るように、現実離れしてなって痴呆に近づいているのではないかと思わせる。



参照:
ヴァイオレンスは爆発だ 2011-12-30 | 生活
殺されかけた夜の夢話 2009-10-19 | 雑感
コメント (3)
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己の文化程度を試す踏み絵

2015-01-14 | 文化一般
パリでは1.11として歴史的なデモンストレーションがあった。新聞文化欄によると、フランスの過去の歴史の克服がそこにあるという。もちろん68年5月のそれがそこに挙げられる。社会党やUMP間でも招待者について議論があったとされる政治家が招待されて、政治的なショーになっていたのも事実であろう。中でもルペン党首が自主的にでも参加しなかったことが失態だとされている。政治的に大きな機会であったのは確かであろう。政治的な思想信条にかかわらずフランス愛国者であるためには、どのようなことがあっても屈しないことを示さなければいけなかったようで、ドイツの緑の党や非暴力のパシフィズムはフランスがフランスではありえないことらしい。その底流にあるのはもちろんフランス革命でありその原点であるのだが、批判的であろうがなかろうが啓蒙無しには何も無いということでもある。

イスラムの教え自体がこうした啓蒙思想には相容れないのは改めて繰り返すまでも無く、イスラム関係者やモスリムが、近代西洋的な考えに妥協しているような態度を示している場合は殆どご都合主義といわれる。そして、何度も繰り返されたようなモハメッド弄りは、モスリムを傷つけることを承知での啓蒙活動でありえるのだろう。イデオロギーの押し売りであることは違いないので、そうした活動に関しては賛否両論あるのだ。

しかし今回のパリの場合は、政治的である以前に我々の社会や生活に脅威となるだけでなく、全否定を行う挑戦であったことは間違いないであろう。反共だけでなくて、本来ならば極右政党のルペン党首が連帯を示さなければいけなかったのも当然である。要するにリバラシオン社に処を移して引き続き世に問われるそのカルカチュアーへの賛否とは別物なのである。

ハムブルガーモルゲンに不審火があったと伝えられるが、今回のパリのような事件が連邦共和国内で起こったらと想像してみると、PEGIDA運動とはまた別な形で町々でデモンストレーションが催されることは容易に想像できる。かつてあったようなキャンドル行進のような形でモスリムを誘う形でとなるかどうか?

モスリムが、その真意にどこまで共感を示して行動するかは不明である。隠れキリシタンの踏み絵ではないが、最新の作品の意味するところはそうした問いかけであろう。とても単純で、インターナショナルな訴え掛けを兼ねた表現となっている。

北朝鮮が問題にした映画の内容も決しておかしなものではなかった。少なくともこうしたユニヴァーサルな表現を理解するだけの最小限の思慮は期待されるということである。日本のネット放送によるとソニーの社長がユニヴァーサル社に向けて上映発売中止を求めて送ったメールが公表されているらしい。オバマ大統領が「自粛」に異議をせざるえなかった事情も合衆国の根幹に関わることだったからである。

日本の企業体がたかが娯楽産業のユニヴァーサル社でさえ十分にマネージメントできないのは、ソニーにまともな人材がいないことを意味しない。日本社会の文化的な程度を示しているに過ぎないのである。



参照:
まだ言論の自由がある? 2006-02-17 | BLOG研究
和平に満ちた閉じた空間 2006-10-06 | 女
皇帝のモハメッド批判 2006-09-16 | 文化一般
イドメネオ検閲の生贄 2006-09-29 | 音
目的となる修正主義との闘争 2015-01-13 | 歴史・時事
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目的となる修正主義との闘争

2015-01-13 | 歴史・時事
二年ほど前に入手した村上春樹の書を読んでいる。求めたのは良いがあまり食指が動かなかったのだ。久しぶりに読むと初期の物よりも書き方が平易になっていていかにも大きな市場を制覇している流行作家のノウハウが詰まっているように感じた。これならば広い層の世界中の市場に語り掛けられるはずだ。実際に重い腰を上げて読み始めたのも、掃除の女性がドイツ版を読んだと聞いたからである。遅れを取ってはいけないと感じた。

まだ始めたばかりだが、その一行一句をじっくりと読むとそれなりの楽しみ方が出来るのだが、二三ページ読み進めると、その行間まで読んでもなにも得られないことが確信された。要するに読者に語り掛ける読者の各々の個人的な共感にそれぞれ訴えるような形をとるための文体であり、それ自体がそれ以上でも以下でもないことを悟ったからである。ある意味開かれた表現であるのだろう。

ここ暫くの読書などを通して、興味深い思いに行き当たった。一つは、音楽劇場における古典の解釈や演出などに関する方法であり、最近接することの多い交響楽などの古典楽曲への視座である。共通しているのは、創作年代に立ち返って、そこから見た視座を出来る限り想像してみるということであり、これは古典鑑賞や解釈の基本なのかもしれないが、最近になって過分に影響力を増してきたかに見えるのである。個人的にもブルックナーの第九交響曲の中に近代工場の騒音を聞き取るのは考えもしなかった方法であって、可成り創作の本質的なところに近づけた気持がしたのであった。

これに関して、歴史修正主義と闘った劇場支配人の仕事を思い起こし、更に最近話題になることの多いドキュメンタリー作家保阪正康の本や講演などを見聞きすると、修正主義の本質が浮かび上がってくるようだ。保坂氏が語るように、当時の状況を可能な限り再構築することで、初めてそこでの判断や視座などが分かるということでしかない。そうした当時の状況を顧みることなく ― 読者に登場人物の苦悩や判断などを示すことなく ―、現在の読者の視座から勝手にその原因と結果を一刀両断に斬るのは「先人たちに不遜」でしかないとなる。そうした経過を経て過去を現在の視点から評価なり批判するということは、そのまま現在の視点や視座を相対化して客観視するということなのである。まさにそうした相対化もしくは客観視することが我々全ての人々に求められていることなのだ。そうした知的な作業を通して独自の視点を獲得できるということに他ならない。

ここでどうしても劇場特に音楽劇場の話題に戻ってしまうのだが、そうした文化活動が税金を使って行われるとすれば、こうした作業の手助けとなるようなものではなければならずに、先の劇場支配人の言葉を借りれば「娯楽ではあってもそれが目的ではない」となる。だからこそ経済的に自立しなくてもある意味当然であり、そのために公的な劇場が存在するということなのである。



参照:
年末年始のプローザ一抹 2015-01-11 | 文学・思想
待たされても感じる温もり 2014-11-13 | マスメディア批評
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大台を割る時への期待

2015-01-12 | アウトドーア・環境
風が強かった。山登りで殆どは向かい風だった。それでも前回のように足元は悪くなく、雪は完全に消え失せていた。それでも頂上には前回よりも一分遅れの37分で、5690歩と二百歩以上余計に走っている。前回が足の置場も無かったので轍を忠実に走らなければいけなかったことから比較すれば、簡単に走り易いようにコース取りをしてしまうのだ。コース取りと書けばなにか早く走るための計算のように響くが、実は楽をしようと思って余計に走っていることになる。決して斜めに走ったりしているつもりはないので、とても驚いている。

ここから、学べるのは、しっかりと目で追って可能な限り最短のコース取りをすれば少し苦しくとも良いタイム出るということである。歩きの場合は無理にない足場を探していくことが山登りの基本であるが、走るとなるとどうもそこが違うようだ。試してみなければいけないのは、最短距離を絶えず目で追って地面の凹凸などを克服して走ってみることだろうか?これで、34分台に届けばその歩数は大分減少している筈だ。少なくとも車の通行可能の林道ではこうしたコース取りは可能である。

登りで一か所だけ追い風の助けを借りてたにも拘らず、風には勝てなかった。陽射しもあって風さえなけれあば決して条件は悪くなかったが、降りて来るまでは誰とも会わなかった。駐車場で、65分で10061歩だった。これが何を示すかというあと、下りに費やした時間は殆ど変わらないがず百歩も増ているのである。これもどうも無駄な距離を走っているに違いないのだ。

冷静に考えれば分かるように、下りで28分掛かるところを400M高度差を30分以内で走れれば、競技に出れるのではないか?先ずは34分を目指してコース取りをしてみよう。背中に張りを感じるが、身体さえ痛めなければ、なにかを達成できるような気がしてきた。帰って体重を量ると70.6kgといよいよ大台を割るときが近づいて来たようだ。その時はスポーツ的に何かを達成できると信じている。二十歳台に近づく。



参照:
抑制不能の衝動の確信 2015-01-09 | アウトドーア・環境
ネット相性診断を試す 2014-12-08 | 生活
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年末年始のプローザ一抹

2015-01-11 | 文学・思想
年末年始で一冊の本しか読めなかった。それでも流し読むのとは異なり、じっくりとその著作の意図などに迫れた。昨年逝去したジェラール・モルティエの遺稿集として出版された、それ以前にフランス語で出ていた短い書き物と新たに付け加えたドイツ語版のための前書きなどで構成されている。七部に前書きやフィナーレ、コーダなどが付け加えられた構成となっている。

氏の音楽劇場支配人としての半生や生い立ちなどにも若干触れられているが、飽く迄もこれを読んで分かるのは演出劇場とそれを可能とするオペラへの情熱である。それは副題として「人類教としての劇場への情熱のドラマ構成」に十二分に表されている。そしてその出典は様々ながらも一貫して実務屋の文章であり、こうした形で出版されているものに期待されるような書き方はされていない。つまり、最初のオペラである「魔笛」と少年ジェラールの繋がりにおいてももう少し主観的な記述があり得るかと予想するのだが、決してそうはならずにどこまでも劇場支配人なのである。想像するに病が発覚してからもプロジェクトなどの実務に最後まで動いていたのではないかと思わせる人物像である。

それでも音楽愛好家もしくは音楽劇場訪問者にとっては、必ずしも氏の支援者でなくとも、興味深く勉強になる書物に違いない。それは、なによりもこの様々な当局と真っ向から戦ったオペラ支配人が、オペラにおける感情的なものにとても強く揺るがされて、そこに音楽劇場の影響力を見ているからである。それが、通常の芝居よりも音楽芝居であるというのは、音楽の本質的な側面でもあると考えている。その一方、数々の新作上演のプロジェクトの経験から、作曲家と演出家もしくは美術家を加えてと指揮者の協調作業の重要性を例示している。

そもそもこの支配人にとっては厳選されたオペラがあり、そこに価値を見出しているのだが、その中でも比較的問題になっているのが昨年末にここでも触れた「影の無い女」なのである。氏は、そこで話題とした問題点として、ドラマテュルギー上の欠陥を上げていて、彼の作家ホフマンスタールもこの問題を解決できていなかったことを指摘している。そうした視点をもとにこの作品をザルツブルクやパリで取り上げていたようである。

協調作業つまり、指揮者も実務的に音合わせをするのだけではなく、最初から舞台化のプロセスに参与すると、フランクフルトで指揮者ドホナーニと経験したようなスムーズな運びになると、これに時間を費やした指揮者のカムブレランとともに実例を挙げている。もちろん前者は有数の譜読み能力の高い音楽家であって、それが舞台化に関わることの意味を解いているのである。

その対極として、目を瞑って音楽に耳を傾けるもしくは所謂コンツェルタンテな舞台無し上演で十分な音楽体験としてカルロス・クライーバーやムーティ―などの指揮者のゼッフィレッリ風演出の舞台実演が挙がるが、後者に関してはミラノで盛んに野次られながらも常習的なフォルテッシモで終わらせるのではなくて楽譜通りにヴェルディ―の狙いを正しく演奏するその実践を評価していていて、おもしろい。

「楽譜通り」の危なさは、作曲家自体がモーツァルトにおいても指揮者として上演するうちに修正していった経過などが出版とはならないなどの事象に触れるとともに、舞台背景や衣装の選定などにも話が及ぶ。そこで批判の矛先となるのは、張子の縦割りのニュルンベルクの家並みで満足する「マイスタージンガー」やルネサンス衣装もデズニーのイメージ以上でも以下でもない米国の劇場などでの意味合いである。

これは、同時に作曲家もしくは作家が活きた時代から見た中世であったりその創作の表現意図が同時に問われていることになる。最後のコーダを飾るフランクフルターアルゲマイネ紙に掲載されたヴェルディーに関する文章は、その視点で詳しく語られていて、19世紀後半のリベラリズムの作曲家とその作品として鋭い光を当てている。リコルディ出版社の地下で手書きの楽譜を見せてもらい、また作曲家の時代背景をみて、独裁者の圧制への抵抗をその人物像としている。つまり芸術的心情告発の自由へ検閲などへの戦いである。それは、本人も上院議員となったようにイタリア統一への動きの中で議会制君主制や共和制への動きの中での関与を指す。

それが直截な形で表れているのがナブッコの合唱であり、それどころか社会の周辺にあるアウトサイダーへの眼差しとなり、何もシラー原作の「盗賊」を出すまでもなくほとんどのヒーロー、ヒロインがこの範疇に当てはまるとする。「ドン・カルロス」における教会権力の悪用における作曲家の反教権主義、もしくは「シモン・ボッカネグラ」における市民と貴族階級の対置などがある反面、僅かながらの宗教的な心情としての「オテロ」のアヴェマリアや「運命の力」の僧もしくはレクイエムのリヴェラメを例外として挙げる。

「ボッカネグラ」や「マクベス」の形式感がなぜ後期の成功作にはあまり感じられないか?これに関して、リヒャルト・シュトラウスの「影の無い女」の問題点よりも具体的に、ルーティンによる演奏実践やプロダクションの問題として扱っている。この文章がコーダーとしてドイツ版を閉じていることを興味深く思う。そして、その遺作「ファルスタッフ」で以てあれほど期待していた1848年の革命の結果が期待を描いたようには運ばずに、第一次世界大戦を招き、ムッソーリーニ、ヒトラーそしてスターリンへと繋がっていく市民社会の歴史をそこに見ていたのだとしている。

まさしく、モルティエー氏がヴィーンの極右政党のハイダーらの入ったヴィーン政府と向かい合った歴史でもあったのだ。法学博士の氏が、作曲家モンテヴェルディをして、その長年にわたるマドリガルの精華をオペラとして、オルフェウスのミトースとして芸術化するところに、そうした普遍的な感情移入の力と同じように権力や表現としての力関係を冷静に腑分けするところにその学徒の思考が垣間見えるのである。



参照:
Dramaturgie einer Leidenschaft, Gerard Mortier, Metzler/Bärenreiter
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
迫る清金曜日の音楽 2008-08-27 | 文化一般
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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永遠のゼロを求める聖戦

2015-01-10 | マスメディア批評
襲撃事件の犯人がたて籠っている件で、ネットは生中継を流している。それを流しながら仕事をしている。デジャブのように思い浮かべるのは浅間山荘事件のあの時だ。当時はもちろんネットなどはないのでNHKのラディオに鳴り響いていた。その時に使っていたトタンジスタラディオはどんな形をしていたかなどと考える。あまり 覚えていない。それでもその時の窓の外の風景や気候などはなんとなく思い浮かべる。太平洋岸でも小雪がちらつくような日だった。調べると二月の末だったのだ。

先日ラディオで、フランクフルト・シュトッツガルトからパリへの新幹線の整備の話題が出ていたので、パリに出かけようかと考えていたのだ。今回の事件がこれで終わって連鎖的な動きが無ければそれに越したことはないがローヌ地域での事件も真相が分からず、この事件や犯人だけが特殊な例とは考えられないのである。事後の動きに注意すべきであろう。

連邦共和国のインフレ率がマイナスとなってデフレ懸念も出てきたようで、更なる緩和政策が話題となっている。なによりも原油価格が大きな影響を与えているようで、食料品などもその影響があるのではないだろうか。生活者にとっては、食料品などが安くなることは良いが、この際出来る限り質に拘りたいものである。

年末年始の食材がそろそろ終わりである。来週早々に肉屋が再開して、もう一週間でパン屋が開く。それまでに全てを平らげれば丁度良いのだ。足りなくとも余ることも無さそうである。総支出は計算していないが、結構良い買い物をしたように感じる。 

相変わらず人質事件は続いている。印刷工場で一人の人質などと聞くと直ぐに解決すると思っていたが、同時に二か所で人質劇を繰り広げることで、警察の実力行使を難しくする作戦だったのだろう。特に報道が状況を刻々と流しているうちは双方で確認しあうことが容易なので、効果のある戦術となるのかもしれない。また、ユダヤ教の食料品店を狙ったのも、ユダヤ人を人質として気兼ねなく盾にできる作戦なのだろう。

警察の強行突入も暗くなってから同時にとのことなのだろうが、犯人の方も名誉の死を遂げるために、最後の戦いを準備しているのだろうか。とんでもない連中であり、今日の欧州からすれば気がふれた人間の行動としか思われないのだが、たかが七十年も遡れば日本人も同じような気持ちで戦っていたのであり、特攻隊などの連中とその気持ちは変わらないのである。流石に連合赤軍などの心理は大分違っていたように思う。

17時頃に印刷工場で二回爆発があったようだが、自爆したのか?当然のことながら食料品店の方でも動きがある。六発の銃声とは?結局どちらから仕掛けたのかわからないが、一先ずこれで事件は閉じたのか。印刷工場は雑誌の仕事をしていたのだろうか。少なくとも犯人たちは無闇に殺戮を繰り広げたのではないことは示せたのではないか?



参照:
抑制不能の衝動の確信 2015-01-09 | アウトドーア・環境
DAX企業法人税平均税率 2015-01-08 | マスメディア批評
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抑制不能の衝動の確信

2015-01-09 | アウトドーア・環境
フランスでの「銃撃戦」が続いている。幸いなことにまだドイツでは連鎖が起こっていない。しかし潜在的な活動は、当局の監視とともに潜伏している筈だ。実際に行動に出るものは多くはないかもしれないが、決して過小評価も出来ないかもしれない。それに対してPEGIDAなどの運動はなんら効力を持たないのも確かであろう。襲撃事件の犯人たちのアジトはシャンパーニュだったようで、北に逃げてベルギーの国境線で一人が拘束されたようだ。しかし、本体は全く違う方向へ逃げているかもしれない。ザールラント州ということはないと思うが、国境での警備は厳しくなっているであろう。

それにしてもああした残忍な犯人が隣人であるとするとやはり恐ろしい。PEGIDAなどの考え方はそこに基礎がある。それにしてもああした旧植民地系もしくは移民の人たちが高飛びするとなるとやはりそちらの方向となるのであろうか?それでも空港などのコントロールはなかなかすり抜けられない。イスラム関係者は東欧と直接の繋がりがないことが西欧にとってはなによりもである。これが、トルコや黒海辺りからどんどん人が流入してくるとなれば、オスマントルコではないが本当に脅威となる。イスラム国やトルコが今狙っているのはそうした地勢的な位置づけなのだろう。

ベルギーといえば、これまた興味深い記事があった。それによると、性犯罪者で三十年の罪を受けている牢獄者の安楽死が許可されたという話である。これも恐ろしい話ではあるが、本人にとってみれば婦女暴行の出来ない毎日など苦しみの極地でしかないのだろう。それを裁判所が認めることになる。実際に、こうした人間が出てくれば同じ行為を繰り返すだけなのだ。死刑が無くても安楽死があるというのが面白い。十分に管理されて運用されればよいが、少し間違えれば、まるでナチが同性愛者を処分したような話になる。

火曜日は久しぶりに山の上まで走った。ここ暫くは雪が多かったからだ。天気が比較的良かったので、夕方出かけたが、手袋なしでは走れなかったろう。午後の走りで、出だしから体が軽く感じて、一番つらい最初の坂も軽く超えて、緑のベンチまで比較的早くたどり着いた。しかしそこからは予想通りに林道の轍を走らなければならずに結構厳しかった。圧雪に足を滑らせながら頂上に着いた時には、5467歩36分と、雪がなけらば間違いなく35分台でも34分台も可能と感じた。どうもこの一年間で最高の記録のようだ。それも頂上直下の雪道以外はそれほど苦しんでいない。降りてきて9908歩64分が足元の悪さと登りの速さを証明していないか。これならば近々もう一度再挑戦してみたいと思わせた。高度差は400m強である。



参照:
企業法人税平均税率 2015-01-08 | マスメディア批評
揉み上げの恐怖に克つ 2014-12-28 | 生活
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DAX企業法人税平均税率

2015-01-08 | マスメディア批評
フランスで襲撃事件が起こった。なるほど大晦日前日に検問があったのはこうした動きがあったからだろう。911の数時間前のように自動小銃は構えておらず、極気楽そうに見えたが、トランクルームにカラシコフを探していたのかもしれない。分解すればどれぐらいの大きさになるのだろうか?支援者が、ポーランドやチェコの国境からフランスの国境まで車で運べば問題なくロシアの武器はフランスまで届く。フランスの情報局は911の時も早めに情報をもとに動いていたが、今回も警戒していたのだろう。また、連邦政府はウクライナからハッカー攻撃を受けた。東ウクライナの対ロシア勢力への支援にキエフ政府と動いていたからのようだ。パリの政府は、協調してこの自体に当たるとしてしているようだが、十分な情報の伝達が事前にあったかどうかは分からない。

面白い記事が載っていた。経済欄の一面にドイツのDAX企業つまり優良上場企業の法人税の額やその利益における割合である。これに似た話題は、山本太郎参議院議員などが日本の現状として訴えていた内容とリンクする。つまり日本ではトヨタをはじめとする大企業は様々な減税処置で殆ど法人として税を支払っていないことを訴えていたのだ。そのさまざまな減税処置とは、まさしく行政の利権の一つ一つで、これによって行政当局は巨大な権力を得ることになっている構造そのものなのである。

そして、ドイツのその一覧表を見ると腰を抜かすに違いない。なんと最高税額は、企業整理としてブラジル法人の売却益を上げたテッセンクルップ社で96.3%の300億円相当である。勿論利益が薄いのでフォルクスヴァ―ゲン社の4000億相当には遠く及ばない。そのVWが26.4%で丁度平均値に当たる。つまりDAX大企業でも利益の27%平均は法人税を払っているとある。

最も少ないのがエネルギー企業RWEで二千億ほどの損失を出したが、前年までの原価償却などが無効となって、更に一千億円以上税金を支払っていることである。高率第二位に入っているドイツェバンクは53%を超えていて、ドイツ以外の高税率の合衆国などの税率でこのような結果となり、また係争費用が経費として認められないことからの高額の徴税率となっているらしい。

新聞は、これら企業から総額30兆円相当を租税することで財政を安定させるとしているので、如何に連邦共和国における法人税の価値が大きいかを示している。またこの平均税率は、労働税などの30%などと比較してそれほど低くはないのでよしとしている。これによって、19%の付加価値税を含めて、財政の健全化が出来ているのである。安倍政権などは何か法人税減税を企てているようだが、輸出大国のドイツの一流企業群がこれだけの法人税を納めていながらドイツに居を定めながら世界的な企業として君臨していることと全く話が合わない。余程日本の一流企業と呼ばれる会社は安い労働力を売り物にした安物企業であるかということだろう。

兎に角、日本社会はマスメディアを含む官僚組織が崩壊状態へと導いており、ドイツ社会は優秀な労働力を必要としているということであり、PEGIDAなどの運動はとんでもないということである。ネット情報によれば、パナソニックが中共から日本国内に生産拠点を戻す方向にあるらしい。真意は分からないが、円安の時点で上手にそれを進めれば、メードインジャパンの商品価値で市場を確保できる可能性もある。なにもご当地のシナ人だけでなく、本当に品質において優れているならば、特に家庭電化においてはメードインチャイナでないことは欧州市場でも付加価値につながる可能性はある。今回購入した髭剃りは、まだまだ使い続けなければその品質については言及できないのだが、技術的には十分に勝負できる商品であることは間違いない。三週間ほどで、公称してあるほどのリチウム電池のもちはないのだが、室内温度などの影響もあるように想像する。充電池はある程度使ってみないと十分に逐電できていないのかもしれないので、もう少し様子を見てみよう。先ごろの炊飯器と言い、この髭剃りと言い、決して欧州銘柄のそれらに後れを取らない存在感を示しだしているのは事実で、市場イメージも欧州で大成功している所詮安物のサムソンとの差別化ももう一息で達成する域に至っているかもしれない。



参照:
あの時のイヴェント 2006-09-12 | 歴史・時事
極東旅行を前にした自信 2007-08-28 | 女
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ログインする緊張感

2015-01-07 | 料理
前日から心配で深く眠れなかった。翌日郵便が来て、新しいパスワードなどでオンラインが出来る筈だからだ。もし郵便が遅れたら、もし新しいデーターでオンライン出来なかったら、もう一日オンライン出来なかったら、などと困ることを考え出すととてもきになったのだ。その証拠にヒーターの上に乗せておいた水筒が内圧と外圧の差でおかしな音を立てたので五時前に目が覚めた。本の続きを読んでまたひと眠りした。

封書を見つけ、緊張のログインは完了した。長いオフライン生活だった。もはやネットなしでは仕事も何もない。技術的にはなにが災いしていたかは結果がはっきりしないのは、いつものように独テレコムが敢えてはっきりさせないようにサーヴィスをするからなのだ。もし長引くようなことになれば代金の弁償などの問題に発展するからであろう。少なくとも借りているルーター自体にはハード面で全く問題がなかったことは明らかだ。そして今後はファームウェアーなどはオンラインでなくとも準備しておかなければいけないことも学んだ。できればネットに上げてある情報もコピーしておくべきだろう。要するにクラウドなどもオフラインではなにも出来ない。勿論二種類以上のアクセスを常時使っていれば安全なのだ。その面で今後の携帯電話なども考慮すべきと分かった。

年末年始と、フランスで購入した食材が役にたった。先ずはスーパーから帰宅後に食したパイ類である。一つ1.60ユーロで、エスカルゴ、鴨、エビの三種類のものを購入した。これを二つも食しただけで夕食になった。オーヴンの電気代を入れても大変お得なお惣菜だった。フランスとドイツの食生活習慣は大分なる、なによりもフランス人は食事に熱心で、それなりの支出も覚悟している。それでも市場が大きいからこうした田舎でも安いものが供給される。丁度住居に関してと反対になっている。今回はブルゴーニュを購入しなかったので、いろいろと購入して16ユーロにも満たなかった。それでもエビを400Gに貝、パイ、チーズなど十分な買い物ができたのだ。これで大分助かった。

オフラインだと、情報は新聞とラディオとなるが、それも一日遅れや車に乗ったときだけである。それでも両二大教会がPEGIDAに対して批判的な声明を出したことが目を引く。月曜日にデモが予定されていたので、ケルンの大聖堂が背景に使わ手は困ると消灯することにしたようだ。またプロテスタント教会もキリスト的とする悪利用だと批判してハッキリと批判するとした。これで、殆どPEGIDA運動は日本における在特会よりも非社会的な活動となる。唯一バイエルンのCSUは移民法に関して問題を提議しているが、徐々にPEGIDAへ支持は難しくなってくるだろう。如何に人を集める活動とはしながらも無視はせずにはっきりとあらゆる社会的な立場でこれらを批判することこそがポピュリズムに対抗する責任ある社会組織の在り方である。

カトリック教会などは、更に経済的な理由や社会的な理由の差異などはあまり重要なことではなくて、紛争地域そのものからではなくともドイツにおいてよりよい社会的な可能性を見出そうとする難民は同じように扱うべきあと主張して、バイエルンの保守政党に圧力をかける。これぐらいではなくては宗教的な支持は得られないのは当然であろう。こうした意見の統合して政治的に解決するのが立法行政の仕事なのである。日本の安倍政権のように極端な修正主義者の声を代弁するどころかそれを自らの主張とする政府が存在すること自体が違法である。



参照:
経験値を上げるお月謝 2014-12-30 | ワイン
オフラインの年末年始 2015-01-06 | 暦
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実体感溢れるSACD再生

2015-01-06 | 
外付けハ-ドディスクと同時に届いたSACD「ルイージ指揮シュターツカペレドレスデン演奏リヒャルト・ショトラウス管弦楽曲集二枚組」をオフライン中に何回も鳴らした。読書中の本に対応したオペラなどと並行してである。最初はネットアクセスの作業をしながらなので十分に耳を傾けることも無く邪魔にさえなったが、その真価は徐々に評価出来るようになった。先ずは録音がとても良い。ソニーがある意味パイロット版のように制作したのだろう。今時珍しく大管弦楽団をルーカス教会で丁寧に録音している。CD一面を三日づつ掛けているので長くも短くも無い。マイクロフォンなどの情報はないが、必要不可欠のマルティマイクロフォンが見事に使われていて、残響も控えめながら十分な量があるので、人工のものは使っていないに違いない。とても自然な音場感が珍しい。

おかしなことに鳴らしているほどに音質が良くなってきたので、CDとは異なるSACDの回路のエイジングなどということがあるのだろうか?最初はあまりにも自然な鳴り方をするので、原版の音を知らない多くの人にとってはあまりその差異は気が付かないかと思ったが、鳴らしているうちに圧倒的にHiFi音響になってきたように感じだした。一週間近く鳴らしたことになる。これだけのふくよかさで開いてくると通常のオーディオファンも納得がいくかもしれない。それでも方向は飽く迄も自然にHiFiへの方向でありマイクロフォンが受け取った音に幾ら近づくかという話になる。それにしてもソロもテュッティーも素晴らしい鳴り方をする。最初はこの程度の差異では全く将来性がないかと落胆したが、ここまで鳴るようになれば徐々にではあっても市場は開ける可能性も見えて来る。

今回の録音では、特に二枚目の「ドン・キホーテ」では、独奏のチェロとヴィオラの楽器の基本振動から倍音成分までの差異がくっきりと分かって、その粒立ちがとても良い。SN比が優れているとしても、昔宣伝文句にあったような漆黒から音が湧き上がってくるわけではない。当然のことながら会場の雑音があり、そこから音が湧き上がってくるのではないのは当然なのである。それでも無指向性のメインマイクを結構高みに位置させているようで、あまり低い雑音はソロのマイクぐらいしか入ってこない様になっているようだ。会場の教会の音響特徴などもあるのだろうが、そうした雑音を避けるようなマイクロフォンセッティングになっているのかもしれない。そのためか実演でも会場によれば押さえつけがましいような重低音の癖が無くて、思わずスピーカーのウファーをプラスの方へと捻った。

それでも少々音量を上げても全く喧しく感じさせないのは、高音と重低音がとても上手にバランスがとれているからなのだろうか?それとも超高音に歪が少ないからなのだろうか?こうした経験は特に家庭用の装置ではあまり感じたことがない特徴であって、長いオーディオ経験の最初から考えればここにきて急激に雑音成分が減少して、喧しさを感じないHiFiが我が家にも実現したと言えるのかもしれない。これだけ大人しければ可成りの音量を上げれそうであるが、近所迷惑になるのでその実験はもう少し適当な音盤を試聴するまでは我慢しておこう。

正月明けのスーパーのレジに並ぶ前に雑誌を捲っていると、LP特集があった。そこには初心者向きプレーヤーなどが紹介されていて、本格的なブームであることが伺いしれた。それにしてもである。こうしたSACDを鳴らしても、CDの時のように中抜きの実体感の無い音と批判する人がいるのだろうか?なるほどCDの限界ははっきり存在したのも事実であるが、その判断をするためには可成りの装置などが前提となっていたことは間違いない。その証拠に私自身CDプレーヤーに高級機などは購入したことがないのである。つまり、幾ら金をかけてもCD自体のデジタル情報力が限られていたからである。そしてそこにはアナログの遊びの要素がなく、スタジオ仕様の商品も殆ど頭出しなどの機能が充実しているに過ぎなかったからである。しかし、こうしてSACDを鳴らすともはやアナログでこれだけ精緻なハーモニー感を表現することなどは不可能だと実感するのである。実際に同じマイクロフォンで、たとえアナログのミキサーを使ったとしてもその原音を聞けば、そのSACDとアナログ音との違いは明らかな筈だ。つまり音の実体がこのデジタル録音にはあるということにはならないか。



参照:
原音再生を意識させるCD 2014-08-08 | テクニック
年末年始のプローザ一抹 2015-01-11 | 文学・思想
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情報量の微分係数への思い

2015-01-05 | 生活
オフライン五日目から読書できた。結局月曜日にはオンラインとならなかったが、久しぶりに強い陽射しがあったので、ボールダーに出かけた。岩の上に雪が残っていてそれが滴り、岩肌も冷たかったので復帰できなかった。車を止める場所も除雪車が除けた雪の囲いが出来ていて、そこに乗り込めなかった。仕方なく雪の空いている路肩に止めた。その後、他の場所も見て回ったが、林の中に落ちている雪に反射して異様な暗さがあった。湿り方はそれほどでなかったので、雪さえなくなれば登れるところは結構あった。

仕方なくその足でスーパーに向かうと、レジが行列で、要らぬものや雑誌などを見て30分ほど時間を潰したが、いつも以上に並ばなければいけなかったのは変わりなかった。2015年は金曜日が飛び石になっていたので、この五日の月曜日が本格的な仕事始めとなり、休んでばかりいる日本と同じような按配になった。

こちらはオンラインにならないと仕事が出来ないので、まだ正月休みである。それでも最初の掃除も済み、陽射しが強かったので、徐々にといった塩梅になった。明日に備えて準備を整えとかなければいけない。

森の中の道を歩きながら、やはりオフラインであると本当に外界から閉ざされて休暇気分を味わえることも初めて経験したような感じだ。山に籠るのでなく通常の旅行ならばメールやネットなどから逃げられないので、こうしたオフライン生活を改めて考えさせられる。休暇とはこうしたものでなければ意味がないように感じたのだ。

経済学者の手法に倣えば、時間当たりで情報量を微分してみると、なんとなくその価値の様なものが見えて来る。要するにネットで情報量は増えたのだが、本当に身になる情報は決して増えていないということだ。おそらくこれはコミュニュケーションの情報論でもあるのだろう。確かに現在読んでいる本も購入直後にばらばらと捲って目ぼしいところをつまみ読んだのだが、今じっくり読んでこれはと思うようなところを上手に外している。なるほどこの書籍に書かれていることはインタヴューではなかなか伝わらないところに踏み入っているから、じっくりと書き手の真意を確かめながら読んでいかないと引き付けれれるようなことはなかった。実用書めいたものをじっくり読み習慣は長い間消えている。物語だけは楽しみながら読むことはあっても、こうしたものを読むとエンターティメントの要素が強い読書と必要に迫られての表面だけの情報を仕入れる読書に別れてしまっていたような気がするのである。書き手の真意を思い描きながらの読書はエンターティメントとは呼べないものが少なくない。



参照:
揉み上げの恐怖に克つ 2014-12-28 | 生活
工業デザイン的な洗練 2013-09-20 | 雑感
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風邪ひきになりそうだった

2015-01-04 | 生活
オフライン四日目である。早ければ月曜日にはオンラインに戻れるだろう。それまでに読書や語学勉強などが出来るかどうか?何を読もうかと思う。先ずは、昨年逝去したジェラール・モルティエーの遺稿集を読みたい。所々読んでいたものだ。久しぶりに走って、峠まで21分、3260歩、降りてきて36分だった。帰って来てから体重を量ると71.2KGと運動不足で完全に体重が落ちていた。

戻るときに冷たいものが降ってきたと思ったら雪に変わった。三度目の積雪である。こうして雪が積もって、外界から閉ざされて、読書をして、音楽などに心を寄せる。そこでモルティエーの劇場観をもう一度氏の全体像として捉えておくとよいと思った。先日のミュンヘンでも立見席も中高年が多く若い人は他所の都市よりは見かけたかもしれないが、それでも少な過ぎるだろう。

暮れの滝見物は、なんとか用は足した。結論からすると、予想通り水量が多過ぎて、完全に凍結することは殆どない様子だ。雪が積もればまたそれなりに水量が増す。だから可成り冷えないと難しい。高度も海抜600Mほどなので異常な低温にならなければ難しいだろう。階段状になっているので、瀬が凍結しだすと上に盛り上がって、下の滝から上の滝まで50M以上は登れるだろうが、可成り分厚い氷のスロープになるのだろうか。折角の滝があるにも拘らずそこを登る機会は通常はなさそうである。下の駐車場から二キロほどと道標はなっていたが、肝心の滝までは沢の中の雪道を流れを巻いて近づいて行かないといけないので、三時ごろに登り始めて降りてきたのは四時半過ぎになっていた。

観光地として雪道を歩いたり写真を撮りに来ていた人は何組もいたが、当日滝まで歩いて来ていたのは一組しかいなかったような足跡しかなかった。雪も谷筋なので結構深かった。水気があるのでブレンナー峠を下を歩いた時よりも足は湿ったが、毛糸の圧手を履いていたので凍り付くようなことはなかった。しかし、帰って来て日にちが経つと結構疲れて風邪をひきかけた風はあった。



参照:
経験値を上げるお月謝 2014-12-30 | ワイン
初雪初積雪の冬真っ只中 2014-12-04 | 暦
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氷葡萄酒の名匠のお屠蘇

2015-01-03 | ワイン
ワインについても書き忘れてはいけない。デーノッフ醸造所のフェルゼンベルク2013年グローセスゲヴェックスである。昨年の夏初めて訪れたときに試飲して残っているワインを予約したのであった。このワインのためにフランスに行って甲殻類を購入したようなものである。なぜ甲殻類なのか?これは説明が難しいが、試飲した時に火山性のそのミネラルからこれしかないと感じたからである。ある意味強いミネラルなのだ。そうしたものに豚肉の繊細やドイツ料理の素材の味は合わない。

だから、強い味の甲殻類であり、日本料理なのである。それは正解だった - そして今年は午前中に飲み倒れることはなくて、飽く迄も夕食にメインをもってきたのである。流石につけ醤油にどうかとは言えないが、少なくとも煮物ぐらいには堪えない。強い味筋なのである。これは言い換えると、味の複雑さには限界があると言ってもよいだろう。勿論この醸造所にはスレート土壌のリースリングもあるので、そちらの方はもう繊細であるに違いない。しかし傾向としては甘口の醸造所が辛口を上手に造っているという傾向は否めず、味の傾向ものっぺりとしたラインヘッセンのケラー醸造所の「のっぺらぼう」などとも共通する。要するに複雑性には欠けるきらいはある。但し質の高さはもしかするとライヴァルのシェレーバー醸造所よりも高いぐらいで、丁寧な仕事は特筆されるだろう。酸は綺麗に分解されているが、貴腐の存在はあまり感じさせないのは余程の手間をかけているに違いないのである。それにしても2013年の特徴とは言いながらこれほどはやくから楽しめるグローセスゲヴェックスには驚く。ある意味ここのリースリングはあまりもたないか、あまり瓶熟成をしないのかもしれない。これはいろいろと試してみなければ評価は下せないだろう。訪問した時の親爺さんの顔を思い出すと、「現在最高のアイスヴァイン造りの名匠」は、あの真っ黒の搾り汁の貴腐の使い方を熟知しているに違いない。蜂蜜味を出さないで辛口を醸造しているとすれば恐るべき業である。

食事で面白かったのは、最新IHジャーでの寿司米も満足だったが、安売りで見つけたアヴォガドが興味深い色を醸し出したことであろう。そもそもキャリフォルニア出身の素材が大阪寿司で作られた記憶がない。今回二枚おろしのイワシの塩漬け二匹を素材にして箱寿司を企てたが、それを作りながらやはり寿司の原点は押し寿司だと再認識した。そもそもは麹を使った魚の保存法であったから、滋賀県の鮎寿司のようなものである。その流れを汲んでいるのは間違いなくこれであろう。和食文化の広報なんだかんだというならこのスローフードの時代には何はさておき鮎寿司であろう。

ただしエビの方はワインに浸しておいたのだが海水が強かったのか、グリルすると塩気が強すぎた。保存のために海水以上の塩水を使ったのかもしれない。それゆえかお頭付尻尾付のそれも全く気にならなく平らげた。貝の方もどれということも無く食して、流石にフランスの食生活はこんなに内地でも奥が深いと思わせた。これぐらいでないとワインにも力が入らないのである。もう一品はニシンの煮凝りで、これは毎年のごとく食すが、結構上手に作ってあって、身の量も十分である。どのようなように食しても魚を楽しめる。

春になれば、ナーヘの谷から試飲会への招待状が届くはずだ。間違いなくグーツリースリングにも期待できる。2014年は2013年ほどには魅力はないかもしれないが、それでも楽しみである。この醸造所のリースリングは割安感がとても強くて、そこまで車を走らせて買い付けても決して損はない醸造所である。それにしても十分残してある糖を残糖とは感じさせない腕には脱帽である。



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オフラインの年末年始 2015-01-06 | 暦
雨のナーヘの谷を回遊 2014-09-14 | 試飲百景
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