Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

オフラインの年末年始

2015-01-01 | 
予想通りの年末年始だった。注文していた外付けハードディスクが晦日に届いたのも予定通りだった。前日には話題の金正恩の映画をダウンロードして観終わった。北朝鮮のネット攻撃にやられたかルーターのソフトが壊れだした。もちろん新しいHDをインストールしようとしていた時に起こった。これでインターネットから遮断されることとなった。最近調子が悪かったので一度弄る必然性はあったのだ。

原因追及に色々と試みて、不貞腐れて、最小限の食事と用意をして床に就いた。花火は雪のおかげで賑やかだったが落ち着いた派手さがあった。その感じは元旦のノイヤースコンツェルトにもあって、前半のオーストリアのチロル民謡や鳥の声をちらばれた曲などにもあって、そして休憩の間の「ばらの騎士」などにもよく表れていた。こうした落ち着きこそが欧州の世界観でなければいけない。

ヴィーンからの中継放送の前のドレスデンからのミサ中継にもそれは格別に表れていたように思う。神父のお話しはご当地で盛んなPEGIDAなどの運動に対するおっ説教が重きを置かれていた。「イエスが我々を受け入れた如く、私たちも受け入れなければいけないのだ」と、「イスラム国に関しては様々な立場から争えばよいが、難民を歓迎することだけは議論の余地がない」ことの根拠づけとしていたのである。

こうした三省を元旦に繰り広げる新年を祝う姿勢も素晴らしいが、なるがままに無為自然に客観的に考える姿勢こそが近代の西洋文明の発展の基本であり、今後も思想的にも世界を先導する根拠となるのである。前の中継のドレスデンのミサではバッハのロ短調ミサが響いていた。バッハが書いたミサ曲である。その作曲事情はドレスデンでのポストへの魅惑であったが、その音楽に魅惑されそれがこうして活きていることをどうしても考えてしまうのである。

今年ほど落ち着いた感じがしたことはなかったのはなぜだろうかと思う。一つにはクリスマス前に旅行をしてしまったこともあるだろうか。兎に角、日本の正月を思い起こせば、そのリセットの時の不自然さとともにいやにはしゃいだ様な落ち着きのなさが感じられたのだった。そして今年は、つい先日走った、まだ休暇前で静かなインスブルックからブレンナーの谷に想いを寄せれば ― 今頃はスキー客で沸き返っているだろうが、これまた鄙びたアルプスの共和国の風物が味わい深い。

さて、金正恩の映画は流石に手慣れた手法で上手に出来上がっている感じであるがB級映画には違いないだろう。そのような映画に対してなぜあれほどまでに北朝鮮がテロ予告まで出したのか?そこがこの映画を見て終わっての思索であった。この映画の見所は、最初は毒殺を考えていたのに、金が愛する米キャスターは、暴力を使わなくとも生中継の「インタヴュー」でつまり「言論」で「殺せる」と考え直したのである。まさしくここがこの映画の核心で、そして世界の誰もが考えるように金の赤裸々な人間性を暴くことでの「その権力実態の危うさ」を示すことが「革命」であると信じる人々を描くことでもある。

これだけを考慮すれば、必ずしも北朝鮮がそこまで目くじらを立てる必要もなかったのであろうが、彼の政権にとってはそうした楽屋裏や落ちを見せること自体が危険であると感じたのだろう。北朝鮮の国民の多くがあの金をそれほど特別視していないのに違いないが、少なくともそこに何らかの光を当てて貰っては困るのに違いない。独裁政権が国民を騙すことは周知の事実である。その点、日本の今上天皇の存在自体はこの議論の落ちの無いところであるが、逆に安倍政権などに居座る権力者層の楽屋裏を見せることは日本社会にとってはとてもタブーであり続けるのだろう。合衆国と日本のエンターティメントやメディアの違いでもあろう。日本の国民が北朝鮮人よりも行間を読んでいると考えるのは間違いであろう。

指揮者メータが、「楽友協会ホールには良く通ったがいつも立見席の常連だった、そしてまた指揮台が立ち席だ」と会見で買ったようだ。そして今回五回目の登壇を見ると、楽団から引き出すその深々とした響きの悠久の流れのようなものを感じさせて素晴らしい。これが現在の中欧の文化の一つであることは間違いないのである。



参照:
余裕が全く無くても冷静な元旦 2013-01-01 | 料理
毒が体中に回った元旦 2012-01-02 | 暦
揉み上げの恐怖に克つ 2014-12-28 | 生活
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