Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

目的となる修正主義との闘争

2015-01-13 | 歴史・時事
二年ほど前に入手した村上春樹の書を読んでいる。求めたのは良いがあまり食指が動かなかったのだ。久しぶりに読むと初期の物よりも書き方が平易になっていていかにも大きな市場を制覇している流行作家のノウハウが詰まっているように感じた。これならば広い層の世界中の市場に語り掛けられるはずだ。実際に重い腰を上げて読み始めたのも、掃除の女性がドイツ版を読んだと聞いたからである。遅れを取ってはいけないと感じた。

まだ始めたばかりだが、その一行一句をじっくりと読むとそれなりの楽しみ方が出来るのだが、二三ページ読み進めると、その行間まで読んでもなにも得られないことが確信された。要するに読者に語り掛ける読者の各々の個人的な共感にそれぞれ訴えるような形をとるための文体であり、それ自体がそれ以上でも以下でもないことを悟ったからである。ある意味開かれた表現であるのだろう。

ここ暫くの読書などを通して、興味深い思いに行き当たった。一つは、音楽劇場における古典の解釈や演出などに関する方法であり、最近接することの多い交響楽などの古典楽曲への視座である。共通しているのは、創作年代に立ち返って、そこから見た視座を出来る限り想像してみるということであり、これは古典鑑賞や解釈の基本なのかもしれないが、最近になって過分に影響力を増してきたかに見えるのである。個人的にもブルックナーの第九交響曲の中に近代工場の騒音を聞き取るのは考えもしなかった方法であって、可成り創作の本質的なところに近づけた気持がしたのであった。

これに関して、歴史修正主義と闘った劇場支配人の仕事を思い起こし、更に最近話題になることの多いドキュメンタリー作家保阪正康の本や講演などを見聞きすると、修正主義の本質が浮かび上がってくるようだ。保坂氏が語るように、当時の状況を可能な限り再構築することで、初めてそこでの判断や視座などが分かるということでしかない。そうした当時の状況を顧みることなく ― 読者に登場人物の苦悩や判断などを示すことなく ―、現在の読者の視座から勝手にその原因と結果を一刀両断に斬るのは「先人たちに不遜」でしかないとなる。そうした経過を経て過去を現在の視点から評価なり批判するということは、そのまま現在の視点や視座を相対化して客観視するということなのである。まさにそうした相対化もしくは客観視することが我々全ての人々に求められていることなのだ。そうした知的な作業を通して独自の視点を獲得できるということに他ならない。

ここでどうしても劇場特に音楽劇場の話題に戻ってしまうのだが、そうした文化活動が税金を使って行われるとすれば、こうした作業の手助けとなるようなものではなければならずに、先の劇場支配人の言葉を借りれば「娯楽ではあってもそれが目的ではない」となる。だからこそ経済的に自立しなくてもある意味当然であり、そのために公的な劇場が存在するということなのである。



参照:
年末年始のプローザ一抹 2015-01-11 | 文学・思想
待たされても感じる温もり 2014-11-13 | マスメディア批評
コメント
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