Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

己の文化程度を試す踏み絵

2015-01-14 | 文化一般
パリでは1.11として歴史的なデモンストレーションがあった。新聞文化欄によると、フランスの過去の歴史の克服がそこにあるという。もちろん68年5月のそれがそこに挙げられる。社会党やUMP間でも招待者について議論があったとされる政治家が招待されて、政治的なショーになっていたのも事実であろう。中でもルペン党首が自主的にでも参加しなかったことが失態だとされている。政治的に大きな機会であったのは確かであろう。政治的な思想信条にかかわらずフランス愛国者であるためには、どのようなことがあっても屈しないことを示さなければいけなかったようで、ドイツの緑の党や非暴力のパシフィズムはフランスがフランスではありえないことらしい。その底流にあるのはもちろんフランス革命でありその原点であるのだが、批判的であろうがなかろうが啓蒙無しには何も無いということでもある。

イスラムの教え自体がこうした啓蒙思想には相容れないのは改めて繰り返すまでも無く、イスラム関係者やモスリムが、近代西洋的な考えに妥協しているような態度を示している場合は殆どご都合主義といわれる。そして、何度も繰り返されたようなモハメッド弄りは、モスリムを傷つけることを承知での啓蒙活動でありえるのだろう。イデオロギーの押し売りであることは違いないので、そうした活動に関しては賛否両論あるのだ。

しかし今回のパリの場合は、政治的である以前に我々の社会や生活に脅威となるだけでなく、全否定を行う挑戦であったことは間違いないであろう。反共だけでなくて、本来ならば極右政党のルペン党首が連帯を示さなければいけなかったのも当然である。要するにリバラシオン社に処を移して引き続き世に問われるそのカルカチュアーへの賛否とは別物なのである。

ハムブルガーモルゲンに不審火があったと伝えられるが、今回のパリのような事件が連邦共和国内で起こったらと想像してみると、PEGIDA運動とはまた別な形で町々でデモンストレーションが催されることは容易に想像できる。かつてあったようなキャンドル行進のような形でモスリムを誘う形でとなるかどうか?

モスリムが、その真意にどこまで共感を示して行動するかは不明である。隠れキリシタンの踏み絵ではないが、最新の作品の意味するところはそうした問いかけであろう。とても単純で、インターナショナルな訴え掛けを兼ねた表現となっている。

北朝鮮が問題にした映画の内容も決しておかしなものではなかった。少なくともこうしたユニヴァーサルな表現を理解するだけの最小限の思慮は期待されるということである。日本のネット放送によるとソニーの社長がユニヴァーサル社に向けて上映発売中止を求めて送ったメールが公表されているらしい。オバマ大統領が「自粛」に異議をせざるえなかった事情も合衆国の根幹に関わることだったからである。

日本の企業体がたかが娯楽産業のユニヴァーサル社でさえ十分にマネージメントできないのは、ソニーにまともな人材がいないことを意味しない。日本社会の文化的な程度を示しているに過ぎないのである。



参照:
まだ言論の自由がある? 2006-02-17 | BLOG研究
和平に満ちた閉じた空間 2006-10-06 | 女
皇帝のモハメッド批判 2006-09-16 | 文化一般
イドメネオ検閲の生贄 2006-09-29 | 音
目的となる修正主義との闘争 2015-01-13 | 歴史・時事
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