原発事故から半年経つ911に様々なイヴェントがあるのだろう。福島を熱心に紹介しているのは独第二放送ZDFだけではない。第一放送網ARDのTVやラディオ放送では半年経過の番組が目白押しで、ネットでのそれを全て聴取するには何時間も掛かる。それでもバイエルン2の四十分間のラディオと最新のTVニュースは回した。
前者は政治的な影響を現地取材を交えて ― 先日の増山麗奈女史が司会した院内集会「安全なお米を給食に」の紹介など ― 日本学の専門家が語った番組であるが、重要な点は市民運動の盛り上がりがどのような影響を与えるかの問いかけであり、話者は三島憲一教授の言を借りて、一過性の現象で終わるとしている。その背景には、現在の日本の先進工業国としての基礎がエネルギー政策にあった事実と「政治など如何でも良いぐらいに強い原子むら」の存在がある。
これに関しては、なんども主張しているように議会活動として環境政党が定着しない限り、何もかわらないというほかないのである。逆にそれが達成されるときには環境政策だけでなく、政治が日本社会が変わるということになるだろう。
TV取材は、先日来日本で話題となっているZDF「フロンタル21」の報道姿勢とは全く異なる落ち着いた報道である。しかしそれは報道の制作方針の差でしかないのである。どうも多くの日本人は今でも報道は中立というような透明人間としての表現が出来ると思っている社会層が存在するようで、環境どころか表現や演出の集積であるメディアですら自らの自意識世界と混同しているのである。これは教育の問題であり文化の問題であろう。
さてその内容は、南相馬に居残る人へのエイドアクション「ハートケアレスキュー」を繰り広げる沖縄のサーファー上がりの僧侶Bansho Miuraの活動を通して、政府に突き放された避難地域を紹介する。増加した自殺者数とそして将来を展望する。同じスタッフは先日の一時帰宅にも同行していたようであり、ZDF取材陣と比べて環境が静かに描かれているのが特徴だろうか。
どちらの報道がその現実を正確に伝えていて、視聴者により多くを語るとは言い切れない。あるのは表現の違いだけである。「政府を信用する者は皆無」で「安全に食するものも水もなく」、「本当の援助もなく」、「そこには生活の崩壊」しかないのである。
そして、表現がなにかを訴えることが出来るかどうかは、吹き替えが巧くいっているとかどうかの問題などでは全くないのである。それどころか適当な日本語字幕を見て云々議論するような中途半端な教育をしている文部省がいけないのである。
参照:
MoMa-Reporter: Überleben in Fukushima, Philipp Abresch (WDR/ARD Madiathek)
「[安全なお米を給食に]~目指せ、子どもたち内部被曝ゼロ緊急院内集会!」 (岩上安身オフィシャルサイト)
桃色のゲリラ眠れる我起こす (壺中山紫庵)
目が黒いうちに食いてぇ秋刀魚 2011-09-05 | 歴史・時事
消し去ることの出来ない無理 2011-05-30 | 雑感
前者は政治的な影響を現地取材を交えて ― 先日の増山麗奈女史が司会した院内集会「安全なお米を給食に」の紹介など ― 日本学の専門家が語った番組であるが、重要な点は市民運動の盛り上がりがどのような影響を与えるかの問いかけであり、話者は三島憲一教授の言を借りて、一過性の現象で終わるとしている。その背景には、現在の日本の先進工業国としての基礎がエネルギー政策にあった事実と「政治など如何でも良いぐらいに強い原子むら」の存在がある。
これに関しては、なんども主張しているように議会活動として環境政党が定着しない限り、何もかわらないというほかないのである。逆にそれが達成されるときには環境政策だけでなく、政治が日本社会が変わるということになるだろう。
TV取材は、先日来日本で話題となっているZDF「フロンタル21」の報道姿勢とは全く異なる落ち着いた報道である。しかしそれは報道の制作方針の差でしかないのである。どうも多くの日本人は今でも報道は中立というような透明人間としての表現が出来ると思っている社会層が存在するようで、環境どころか表現や演出の集積であるメディアですら自らの自意識世界と混同しているのである。これは教育の問題であり文化の問題であろう。
さてその内容は、南相馬に居残る人へのエイドアクション「ハートケアレスキュー」を繰り広げる沖縄のサーファー上がりの僧侶Bansho Miuraの活動を通して、政府に突き放された避難地域を紹介する。増加した自殺者数とそして将来を展望する。同じスタッフは先日の一時帰宅にも同行していたようであり、ZDF取材陣と比べて環境が静かに描かれているのが特徴だろうか。
どちらの報道がその現実を正確に伝えていて、視聴者により多くを語るとは言い切れない。あるのは表現の違いだけである。「政府を信用する者は皆無」で「安全に食するものも水もなく」、「本当の援助もなく」、「そこには生活の崩壊」しかないのである。
そして、表現がなにかを訴えることが出来るかどうかは、吹き替えが巧くいっているとかどうかの問題などでは全くないのである。それどころか適当な日本語字幕を見て云々議論するような中途半端な教育をしている文部省がいけないのである。
参照:
MoMa-Reporter: Überleben in Fukushima, Philipp Abresch (WDR/ARD Madiathek)
「[安全なお米を給食に]~目指せ、子どもたち内部被曝ゼロ緊急院内集会!」 (岩上安身オフィシャルサイト)
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