Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

修正主義と制御付新自由経済

2014-04-13 | 歴史・時事
承前)日本の遅れてきた帝国は、シナにとっては別の意味がある。シナは、1792年の英国からの特使以来西洋からの開港など外圧に対応してきたのだが、朝鮮半島を犠牲にした1894から95年の日本との戦いで破れたことで、満州や台湾への権益を失う。シナは、明治政府に学ぶことになり、1898年には相手側の首班であった伊藤博文を招聘して、清の皇帝に会わせ、改革への任を命じようとさえした。しかし、この試みは保守層によって摘み取られる。

その流れの中で改革派は日本へ亡命して、近代化を中国語に訳して、1911年の中華共和国の成立を準備する。魯迅などを代表とする人々である。しかし、ヴェルサイユ協定の結果は、チンタオ半島などので、日本のみならずドイツもシナにも大きな不満を齎すことになり、シナの日本への感情も一変するのであった。

そして1919年5月4日の学生革命へと繋がり、これが国粋的な運動として現在まで祝われる背景に、シナの日本に対する嫉妬や怒りがあり、「病弊したシナ」として日本において扱われる所以でもある。

その後の大日本帝国の侵略の歴史は、東京裁判でも明らかになったように、あらゆる兵器による虐殺や慰安婦に代表される非人道的な行為によるシナ人など甚大な犠牲によって、日本の野望は灰燼と帰す。

戦後の歴史は、一端崩壊したドイツとは異なり天皇の継続とともに日本は其の侭、台湾へと移った戦争当事者であった蒋介石の「敵意を徳で以って仕返しする」として自由主義陣営の傘の元で国交回復する一方、共産主義陣営の毛沢東の中共は「抗日戦線勝利」と「権益の回復」をその正統性の根拠として、1971年のニクソンショックを待つことになる。

ピンポン外交などに続いたニクソンの訪中は、日本に「アメリカとの安保条約への不信感を募らせ」、電撃的な1972年の田中訪中を決断させて、1978年の日中国交回復へと結びつくのであるが、話者が記すように「時の日本の政治家と、軍国主義や帝国主義者を別けることはまだまだ当時は容易だったようだ」となる。

日本の安い産業製品を輸出する成長戦略は、所謂小虎諸国やシナの経済モデルとなり、その小平の戦略で最も恩恵を受けたのがアニメやファッション、ポピュラー音楽の日本製品である。シナから海外への六割の留学生は日本で学び、中国語は英語に続き日本で最も学ばれている言語となる。

しかし、シナの全体主義と日本の民主主義の対立状況は、80年代の教科書検定問題に対するシナの批判を以って、日本と台湾の関係の対立にとって代わるようになる。そこで鈴木首相の公式な「悔恨」表明となるが、「白人植民地支配に対抗する亜細亜の開放」と「戦犯」が日本政府内に今に至るまで存在する議論であり、シナは政治的な反論としてこれを武器にする。

天安門事件以降最初にシナとの外交を再開した民主主義的な国が日本であり、89年以降の東欧での民主化革命において、共産党の基盤が揺らいできたことから、1994年1月に「愛国的教育」を採択する中共は、有史以前からの五千年の歴史においてこの百年間の没落を正当に克服した」とする教育を徹底する。それによって、日帝の行いも「度を超えて扱わう」ことで中共の正統性を強化することになるのである。

その一方、日本は政治権力者どころか天皇までが過去への遺憾を繰り返して表明するにも拘らず、マッチポムプ式に有力な政治家が度々繰り返し1937年の南京虐殺や慰安婦強制問題を否定することで、更なる遺憾の意の表明が重ねられるようになる。その中で靖国神社が問題となって、A級戦犯合祀以前はドイツ政府が1970年に靖国に植樹するように諸外国からある程度の認知が得られていたにも拘らず、それ以降はその存在自体が中共のみならず諸外国からの批判の対象となる。

シナの経済的な勃興に伴って、1990年のバブル崩壊後のデフレの日本はこの地域での影響力を減少させた。小平の近隣との友好的な関係構築政策は過去三十年間の実を結んだが、2008年の世界金融危機以降、シナの世界での政治的な影響力が変革して、同時に政治的な制御を持ったリベラリズム経済は政策のモデルでありえるかどうかが、自負を持ったシナで議論されるようになった。

釣魚紛争以来、これが日中対立の焦点となるが、2013年2月の日本の海上保安庁の船長の躊躇によって戦闘は避けられたものの、シナの10月の航空機識票設置へとエスカレートしており、両国の国内政治への影響を与えている。2012年にはシナは「シナの夢」を掲げ、2012年12月には日本では修正主義者を多く抱えた内閣を発足させた。

世論調査では、両国の九割が相手国を不愉快に思っており、1914年の欧州を比較するのもそれほど驚くにあたらない。軍事的なグレーゾーンにおいて誤った認識から戦いとなる危険性は現地でも、それどころか両首都でも現実となっている。政治家は、クリストフ・クラークの言うよく見える眼と危険への十分な認識を扱っているのとは大分事情が異なっている。(終わり)



参照:
史実に立つ頭打ちシナの現実 2009-05-23 | マスメディア批評
上から目線でしょうか? 2013-12-04 | マスメディア批評
日本の情報統制の進行? 2014-01-22 | 歴史・時事
小日本の皇帝思想 2014-04-10 | 歴史・時事
見苦しい日本国大使の反論 2014-01-22 | 歴史・時事

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