Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

半世紀の時の進み方

2006-02-19 | 文化一般
有名なジッドの小説ではないがベートーヴェンの田園交響曲に注目している。理由は、ルソーの啓蒙主義によらず、広義の環境と言う事で興味を持ったからである。生の演奏を聞いた経験は、カール・ベーム指揮のヴィーナー・フィルハーモニカーの演奏ぐらいであろうか。録音もそれほど所持している訳ではないが、それでもかなりの種類の演奏を耳にしている。

手元にあるLPが最も古くから所持しているの物の一つで、フォン・カラヤンとベルリナー・フィルハーモニカーの最初のベートーヴェン交響曲全集である。この録音とは、満八歳ぐらいからの付き合いであろうか。今回鳴らしてみて大変面白かった。この録音でこの曲の真価を知る事は困難だが、その演奏された時代を知る意味で何時までも顧みられるかもしれない。その後の再三の録音やそれ以前のフィルハーモニア・オーケストラなどとの録音を聞かずともこの前代未聞の指揮者の全ディスコグラフィーがこれで充分想像出来る。それにしても作曲家の描いた心象風景は、ここでは当時の重量級の最新型メルセデスでアウトバーンを走るように、スイスイと通り過ぎて行く車窓の景色になっている。合理的な構造は至極上手に処理されて、そのような環境を知らない世界中の人達が恰も見知らぬ土地の絵葉書でも見るかのように音の風景に吸い込まれる。細部をルーペで拡大しようとしても、目から離して一望しようとしても、その雰囲気や実感は摑めないどころか、景色はじっと凝視されるのすら拒んでどんどんと先へと早い速度で流れて行く。

その後の精緻さを増した、千年天国を目指して繰り返された再録音への意思を指して、1994年に評論家のヨアヒム・カイザー教授は、「この帝王と交響楽団は、末期にはご乱心していた」としている。それは、「作品や思想の仲介や、専門的な隠語など無関係な者達への豊かなQOLの仲介と、軽薄な売れた舞台芸人との間の見えない境界を越えて仕舞ったからであり、エンタテーナーとしての自己実現や金儲けが、対象への興味を越えて仕舞ったから」であるとしている。

ここで、槍玉に上がっているのは当時スキャンダルとなっていたユスティス・フランツの新帝王への試みでもある。「忙しいピアニストでも、充分に指揮の能力がないので、若い純な見習い音楽家達に反乱を起こされ、バーンスタインやチェリビダッケを引き出した」この監督ばかりか、それが率いる「シュレスヴィック・ホルシュタイン音楽祭に美味しい蜜を求めて遣って来るぺテルスブルクの指揮者やアルバン・ベルクカルテットの連中も(取り巻きにチヤホヤトされて持上げられた)同じ穴の貉であるかどうかはどちらでも良いが」と、今読んでも手厳しい論評をしている。前者に関しては東欧経済援助の一環に乗って、また当時参加した若い音楽家などへ与えた心理(此処で扱われている栄光とみすぼらしさ)を利用して、その後の世界をまたにかけたドサマワリ商売へと繋がっている。後者については平均率的な演奏で従来の室内楽を越境して大ホールに進出したアンサンブルを今更思い起こす必要は無かろう。

カイザー教授は、マクベス、ナポレオン、ヒットラーを比較に出して、エンタティナーのポピュラリティがセクトの傲慢なポピュリストになる時点を解析して、稀にみるキャリアーへと至った自己への熱狂と往々にして芸術に欠かせない事象への熱狂が消滅して行くその時と、それを定義している。そして、誰が何処に含まれるかを示す為にこそ専門家が必要なのだと自己宣伝をする。

一体、誰が誰を必要とするのか?先日、パリのゲーテ・インシュティツートでオペラ座のモルティエー博士と演出家のシュリンゲンジッフ氏の対談の会が開かれたようだ。テーマは、「高度な文化と通俗な文化」であって各々が其々を代弁する形式となっているが、「今晩此処で傲慢なエリート文化と呼ばれる高度な文化は、ただたんに庶民文化の基礎なのか、どうかは不明です」とオペラ座支配人が溢すと、「その無知の主体は、誰なのでしょう?」とこの勇敢な若者が突っ込んだのが唯一の意見の相違点であったという。

どうしようもない「蝶々さん」の三幕に日々七百枚のチケットが売れているのに、ピーター・セラーズ演出カイヤ・ザリアホの新作「アドリアナ・マテール」には四日間で三十三枚のチケットしか売れなかったと、そしてこのままのルーティンの仕事なら税金の無駄使いで、オペラ座など直ぐに閉めた方が良いと憤る。それに対して、大胆不敵な演出家は、終始「減速」をこの日のキーワードとして、壁時計と腕時計の針の進み方の速度の違いを、些か自信無げに示したと言う。そうして、パルシファルのアムフォルタスとアンゲラ・メルケル若しくはジャック・シラクはたまたサダム・フセインなどの権力者の影に潜むのものは全て同じだと洞察力豊かに示唆を与え、自らの即答の間違いに気づくと素直に言い直しをする演出家に、聴衆は沸き、一気に盛り上がったらしい。

無思考の聴衆と戦う監督と様々な評論家と戦う演出家は、素早い反応と示唆に富んだ知的で楽しい会話を舞台上で繰り広げたと伝えられている。前述の憂う老評論家とこの跳ね返りの若き演出家の間には半世紀ほどの時が流れている。前者の言うようなビジネスモデルは既に過去のものとなり、精々文化の辺境にしか存在しない。後者の言うような通俗な文化が洗練されて、本当に高度な文化へと進んで行くのだろうか?前者の定義する権威者こそ、後者の示唆した主体なのであろう。



参照:
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
吐き気を催させる教養と常識 [ 文化一般 ] / 2005-08-18
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
公共放送の義務と主張 [ 生活・暦 ] / 2005-12-24
御奉仕が座右の銘の女 [ 女 ] / 2005-07-26
文化的回顧と展望 [ 生活・暦 ] / 2006-01-01
文化の「博物館化」[ 文化一般 ] / 2004-11-13

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2 コメント

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大切なもの (ohta)
2006-02-20 18:22:53
 Joachim Kaiser 氏や Eleonore Buening 女史のことはよく知らないのですが,一連の記事を拝見して,"Was mir wichitig ist" というのを読んでみようという気になりました.批評というものがその機能を果たしているのは,それをとりあえずにしろ受けとめる階層があり,ちょっと非難されたというだけで理不尽な攻撃をしかけるのを押し留めている社会的背景がまだあるということでしょう.Justus Frantz という人については Philharmonia Hungarica での記憶しかありませんが,いまでもそちらでは大者として扱われているというわけですか.



 大切なもの,ということで,Mannheim のパン屋に始まり,いろいろな事象にまたがって話しを進めてこられました.いまや商業主義の裏側に廻されてしまい,そこでわずかに生息しているということばかりで,それを支持するといっても我々にできることは,そこへ出席したり,毎週買いに行ったり,たまに寄ったり,というようなこと以上ではありません.その対象は順次消滅して行きます.そうしたものは,特別上等なものではなくて,まったき普通の,どこにでもあると普段思っていますので,本当に失くなってしまってからしか気付かないのです.



 こちらでも,和風のお屋敷一軒があったところに,しばらく見ぬまに四十世帯分のコンクリート塊が立っていてその周りには路上駐車,というようなことがしばしばであり,もともと素封家なんだから痩せ我慢にしろ,まともなものを維持して行くべきなのに,そういう気風もなくなっているのです,スウェーデン王家もそれと同じです.オルテガのいう大衆人を相手にしか経済的に成り立たない状況ゆえのことと理解し,最近は,本当のものが安価であるわけがないから,等価でなくとも出金を惜しまないでおこうと考えるようになりました.そして個人的にしろ,評価を公開するよりないと思います.またその当事者には,近隣だけでなく世界中に顧客の母集団を拡げるよう勧めています.いくらかでも発言するということです.傲慢なエリート文化と呼ばれてしまうでしょうか.学問の世界では理解者が三人いればまずはそれでよいのですけれでも,商売となると三百人は必要でしょう.その三百人も辺境とおっしゃっているのと同義です.



 当方のパン屋は幸いにもまだ続いていますが,中華料理店や,義太夫語り/三味線弾きはもう十五年ばかり前に失いました.半世紀で得たものと失ったものとの帳尻やいかに.
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批評される為の批評行為 (pfaelzerwein)
2006-02-21 19:10:16
Justus Frantzは、その昔エッシャンバッハとのデュオ競演とシュミット首相との演奏が有名ですね。今でもモーツァルトを弾いているそうです。バーンスタインのもとNYデビューともあります。ここで語られた時代は、TVレギュラー音楽番組を持って自分のdie Philharmonie der Nationenを作り上の音楽祭を創設する頃の話です。特に公共の資金を調達するには政治力が何事も大切ですが、カイザー氏の批判は「誰もが感じているいかがわしさ」へと言及しています。今回改めて読んでこういう も ろ な 言い方を敢えてした意図を考えました。文化勲章級の権威がある人ですから、雑魚は勝手に泳がせていけば良いのですが、敢えて火の中の栗を拾おうとしています。当時のビルト紙などの一連のスキャンダルな扱いは記憶にありませんが、ここにあのロシア指揮者と四重奏団が併記されていて、亡くなったあのエキセントリックなココシュカ氏などは怒り狂ったことでしょう。そして、これは評論家としてクリティックする事を自覚した発言であり、身を挺した姿勢と同時に大切なものが浮かび上がる構造が理解出来ます。「言える時に言わなければいけない」と言うヒトラーまでを出した過剰な表現も、「批評される為の批評」として意図されているようです。



当時の音楽祭の様子も聞いていましたので納得出来る事も多く、現在の音楽興行・需要を示唆しています。この十年の世界の流れの結果は様々なところに現れています。批難や批判は、議論が問題では無く、誰もがおかしいと思っている事象をまな板に乗せて問題を浮き上がらせる事にあるのでしょう。ジャーナリストの義務で、ものを書く人の使命でもあるのでしょう。



当然の事ながら、老評論家氏も事情は重々承知していて、失われたものは懐かしむ老人では無く、将来の世代に解決を促しています。「ご時世だから」と権威の烙印を押しておけば、万事好都合で経済も潤うのですが、そうはしません。



若い芸術家ならばゲリラ的なアピールが出来ますが、権威者がこういった全てをかなぐり捨てた態度(年寄りと疎まれ、時代遅れと蔑まれ)で大切なものを示すのは、「先生の座右の銘」とは比較出来ない威力があります。文章は修辞を尽くしたそれほど高貴なものではないのですが(上引用でもタイトルのMIRに通ずる自己批判にもなる二重構造にもなっていてこれまでを理解しなければいけませんが)、批評行為の精神は立派なものです。これを最後に後輩にも勧めているのですね。



母集団のお話ですが、モハメッドの記事での「大多数への懐疑」やシュトラウス氏の言う「並行した社会」にも関係していますね。経済や社会や学問などと言う範疇を越えた興味でしょうか。



関連:

平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
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