Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ドナウエッシンゲン祭管弦楽

2019-10-21 | 文化一般
バムベルクからの中継を観た。最後の少しをBGMで流していたが、中々充実した音を出している。一時は日本では現在のバイエルンの放送交響楽団以上に買被られていて、ベルリンに続くドイツの交響楽団とされていた。その実は異なるとしても、少なくともシノポリ指揮でブルックナーの八番を聴いた時もアンサムブルのバランスは悪くなかった。後のシュターツカペレドレスデンを振った時よりも交響楽団として良かった。特にフルシャ指揮のドヴォルジャークが上手く鳴っていた。先日みたN響の給与よりもここは条件が悪いと思う。せめてこの程度のサウンドをものに出来ないと公的資金の価値が無い。会場が悪いという事もあるだろう。バムベルクもホームグランドがまともになったのは二十年ほど前の事である。

車中のSWR2放送が伝えていた。ドナウエッシンゲン音楽祭が無事に終わり、一万人の入場と、その中に二回の売り切れのコンサートがあったと、そして最優秀作品としてステンアンデルセンの作品が選ばれたと伝えた。

確かに話題性と言い今日的な価値、過去への視線に満ち溢れていた。特に今年は、ブランデンブルク門の第九もそうであるが、ルツェルンでも社会的な視点がそこに注がれた。それは今日の世界が直面する社会構造を芸術ここでは音楽における社会環境を照らすことで反照させるという事でもあった。スイスでは「権力」がテーマとして扱われて、指揮者のそれもテーマとされていた。つまりそのままMeTooスキャンダルを上部テーマから切っていた。

ステン・アンデルセンの2014年にドナウエッシンゲンで初演された作品が素晴らしく安売りDVDを購入したぐらいで、今回の選出もその初演のストリーミングを観ていて当然だと思った。フライブルクでの再演では偶々席が前後になったので、ガールフレンドらしき女性との様子も見ていたが、中々いい感覚をした若い作曲家である。今回の作品も前回のものの延長にありながらトリオと名付けてSWRの通常は揃わない三つの団体つまり交響楽団、合唱団、ポップスバンドを上手く合わせて演奏させる曲でそこに豊富に使用されたSWR主に前身のSDRに登場した名指揮者たちの練習と本番風景の秘蔵の映像が組み合わされる。ある意味カルロス・クライバーの指揮に若しくはセルジュ・チェリビダッケの指揮に合わせて生の楽団が音を出したり、その声を繰り返して歌ったりと、要はおちょくられるのである。しかし流石そこは売れっ子だけに決して「大指揮者」らを小バカにはしない。映像を提供するSWRの小役人さんも安心して協力できる創作の範疇を食み出さない。

Eröffnungskonzert SWR Donaueschinger Musiktage 2019 | SWR Classic cf.1h37m30s


そもそも前回のコンツェルトフリューゲルを吊るして落とす映像でもまた作業手袋を嵌めて楽器をこき使うピアニストにしてもとことんその楽器や楽器演奏の源へと我々を誘うだけの表現となっていて、謂わば記号論的な観照へと導く芸術としても良いだろうか。今日における同時代芸術性を担う創作となっている。今回の創作も既に述べた通り、委嘱の意図を汲むものであったと思う。

正直なところ、SWRフライブルク・バーデンバーデンが吸収合併になり、この音楽祭の先が危ぶまれていた。しかし、こうした作品が改めてそうした懐疑に対して答えを用意していた。これを見ればSWF交響楽団として培われた二十世紀の現代音楽の伝統がそのまま継続されることの方がグロテスクであり、肯定的に捉えれば発展的解消が奨励されたともなる。

SWR交響楽団は一方ではカラヤン二世率いるシュービズへとその可能性を見たかに見えたが最初のシーズンが終わらない内からその可能性が殆ど失せてしまった。正しく、今回の作品で繰り返し奏されるビッグバンドのアコードなどがそれをも嘲笑している。一時はノンヴィヴラートの指揮者を迎えたりと、話題作りだけの管弦楽団であるが、なにかこの作品で初めてこの新しい楽団がこの音楽祭に定着してきたかのようにも思われる。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
批判精神無しに育たない 2018-10-20 | 文化一般

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