日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

原爆の日と長崎市公会堂

2014-08-10 21:29:44 | 文化考

各地に風水害を与えながら、台風11号は日本海に抜けた。
僕の住む神奈川県海老名市は、その余波を受けて時折雨が落ち、生温い風が吹きまくっている。今はまだ台風一過という晴れ間が戻らない。

昨日(8月9日)は「長崎原爆の日」。
朝から行われた`平和祈念式典`をテレビで見て録画した。台風が気になっていたが、テレビで見た限りでは式典が風雨にさらされることは無くてホッとする。

被爆者代表として「平和への誓い」を述べた城蠆美彌子さんは、中学生時代学校は違うとしても僕と同じ学年だと思う。
僕は終戦の翌年の昭和21年に疎開先の千葉県(柏町:当時)の柏小学校に入学し、父方の実家のある長崎の勝山小学校に転校、更に暮れに祖父が事業をやっていた天草の下田村の下田北小学校に転校した。
そして下田の小学校(少子化によってなんと昨年廃校になってしまった)を卒業して長崎中学に入学する。そして祖父が亡くなったことことが切っ掛けになって2年生の半ばに一旦下田中学に戻り(中学に転校)長崎を離れた。そして千葉県の柏中に転校する。しかし中学生だったとは言え、その1年半における戦後間もない長崎での生活は僕の心に深く刻み込まれている。

式典での安倍首相の挨拶は残念ながら通り一遍で無表情、朝日の夕刊では昨年の文言と一字一句違わないところもあると報道された。田上市長の平和宣言は、阿倍首相が国会で力説し採択した「集団自衛権」行使に懸念の意を表するなど一歩踏み込み心打たれた。

だがその田上市長は、昭和31年(1956年)に、秩父宮勢津子妃殿下を総裁とし、副総裁に鈴木茂三郎や三木武吉など超党派の国会議員や長崎県知事など数多くの長崎の人々の意思を受けて「長崎国際文化センター」建設計画により、長崎市出身の建築家武基雄早稲田大学教授の設計によって建てられた「長崎市公会堂」の存続に懸念を示し、市議会では解体の議会決定をしたのだ。

二律背反とも言われかねない。、これでは長崎の平和を願う僕たちの志が世界に伝えられないのではないかと気になる。
15日は終戦の日、この日を期に存続へ向けての再考を願いたい。


僕の手元に長崎の建築家中村享一さんが送ってくれた、復刻された2冊の冊子がある。
一つは、「長崎国際文化センター・建設計画資料」で、もう一冊は「長崎国際文化センターの歩み」。これには「建設事業完了記念誌」と副題が書かれている。
その巻頭に率直に書かれた当時の佐藤勝也長崎県知事の巻頭の言葉に心打たれた。
「敗戦後の虚脱と原発による打撃から、この長崎が、ようやく立ち上がりつつあった昭和30年6月、委員会は発足したのでした。寄付金3億2900余万円、これに県市の財政資金と、長崎観光開発株式会社の投下資本を加え、実に9億円に達する市大事業を完成したのでございます」。
 完成したのは、この長崎市公会堂をはじめ、水族館、図書館、体育館、プール、美術博物館である。

僕はこの冊子を大勢の人に読んでもらいたいと思い、建築学会の図書館に収録してもらために担当する事務局員に預けた。
収録が決定したら全国の建築関係者がこの冊子の検索が出来るようになる。