まったく!と舌打ちしたくなる出来事が起こる。まだ僕はあきらめないが、東京中央郵便局の経緯も、時を経れば「なんてことをしたのだ」と誰しもが悔やむと思うのだが、マネーにこだわる人たちは「時」を想うことができない。今しか見えないのだ。人の記憶を内在する「時」を感じとることができないのだ。つくづく舌打ちをしたくもなる。
僕はおおよその状況は知っていたのだが、改めて歌舞伎座建て替え新聞報道を見て唖然とした。
その数日前、NHK報道局のTさんから電話をもらった。近じか「歌舞伎座」建て替えについてのプレス発表がある、JIAが保存要望書を出すと聞いたがどうなのか?
JIAは改築検討という報道のなされた数年前、既に要望書を出しており現在どう対処するかと情報収集と検討している段階だと答えた。
そしてTさんには、演劇評論家や歌舞伎フアンの有識者からのこの建築に対する想いだけではなく、建築としての歌舞伎座の、「建築家」の見解を伝える機会をつくって欲しいとお願いした。
建築をつくる行為は、本来多くの人々と喜びを分かち合い祝福されるものだ。そうあるべきだ。そういうものだ。だからつくる建築家は「文化を築く」人として尊敬もされるし期待もされる。
それが、いつから、どこでおかしくなったのか!
「東京中央郵便局」だって、郵政内部の建築部門の人々が、率先して壊そうとしている。見え透いた嘘を平気で公表しながら。彼らの大先輩である郵政を率いてきた建築家吉田鉄郎が心血を注いでつくった日本が世界に誇れる建築を。
彼らが「建築家・吉田鉄郎の手紙」(鹿島出版会)を読んでいない筈はない。建築への想いの溢れるこの本に触発され憧れの郵政建築部に入社したのだと僕は信じる。それなのに一体どうしたのだろうか?そういう郵政OBの建築家と親しいのでそう思うのだが、さほど版を重ねていないところを見るとそうでもないかもしれない。なおさら情けなくなる。
「歌舞伎座」新聞報道のタイトルは「歌舞伎座 顔立ち一変」そして『石原知事「物言い」簡素に』とサブタイトルがついている。(朝日 2009・1・28)
歌舞伎座は、明治22年(1889年)檜材による木造3階建てで建てられたのがスタートだった。その22年後に大改造がなされ、正面の車寄せは唐破風、左右と2階は破風を用いた日本風の意匠にかわり、当時の写真を見ると現在の姿の原型になったのだと感じ入る。
ところが大正10年漏電によって消失し、3年後の大正13年(1924年)東京美術学校(現在の東京芸大)の岡田信一郎によって鉄筋コンクリートによって日本一の大劇場として再築された。更に昭和20年(1945年)の大空襲で、外郭を残して消失するという数奇な経緯を辿る。
現在の歌舞伎座は、美術学校の後輩吉田五十八によって昭和25年になって再現された。外観の意匠をほぼ踏襲し、内部は時代の要求を受けて近代化された。以来59年間、あの東銀座の欠かせない風景として愛され続けている。
それを事もあろうに石原慎太郎知事の、装飾に充ちたこの建築を「銭湯みたいで好きではない」との一言で、ガラスと格子を多用したそっけない姿に変えてしまう。デザイン・設計は隈研吾と三菱地所設計。それを仕切ったのは歌舞伎座再生検討委員会の伊藤滋委員長だ。
当初、所有者松竹は、現在の意匠を継承しようとした。役者や歌舞伎フアンのこの建築に対する強い想いがあるからだ。
都知事に、多くの人々の記憶や想いを踏みにじる権限が在るのだろうか?
石原知事はかつて、建築学会、JIA、建築士会会長の面談要請を蹴って、都が所有していた同潤会大塚アパートメントを取り壊した。数年経った今、地下鉄茗荷谷を降りると、空地に仮囲いがされた空しい景色が現れる。
「銭湯」。いいではないか。それが庶民の文化だ。
「歌舞伎!」。この建築関係者はその語源「歌舞く」という意味を知っているのだろうか。歌舞伎を愛する岡田信一郎、吉田五十八は`歌舞く`を形にした。その姿を僕たちは愛した。59年の記憶が消える。知事は、日本の文化にとって欠かすことができない歌舞伎の持つ一面を理解し得ないのだろうか。
この知事の一言と、伊藤滋氏に仕切られる「建築家」の姿に忸怩たるものを覚える。
ますます影が薄くなり市民の信頼が揺らぐ建築家の存在。日本文化の継承は大丈夫なのか。中郵の歴史検討委員会の委員長も伊藤滋氏。肩こりが酷くなるというものだ。
<写真 賑々しく装飾に充ちた歌舞伎座>