信州に伝わる素朴な民族信仰「道神」。
「幾多陰陽の稚気満々たる歓喜の道神は、元来神代の諾、冊の二神を祀り、平和と幸福を象徴する」そして、この神は「実に開放的で天真爛漫、自然そのままの感情を表現していた」と道神面の説明書に書いてある。
陰陽とか、諾、冊の二神が僕にはよくわからないのだが、この神はいつのまにか、旅の守護神や縁結びの神として社寺の境内や路傍に造立され、あがめられるようになっていったようだ。
興味深いのは、この神を、外から家に取り込む手段として「面」というかたちになり、暦のなかの十二直になぞらえつくられるようになったことだ。
最初に眼にしたのは、長野の善光寺のお土産やさんだったと思う。一目で魅かれ今では僕の持つもつ道神面は六面になった。
時には暗室になる洗面所の壁にかけてあるのは、12月「たいら」(写真の上段)と5月「とる」(下段)だ。`たいら`はなんとなくわかる。太平を形にするとこういう顔になるのだ。
`とる`の説明にはこう書いてある。「我慢すれば、待人来て願望開く」。御神籤に書いてあるようなコトバだ。ふーん!これは神様が我慢して踏ん張っている顔か。
僕の生まれた月、2月は`たつ`。「気力あれば立つ」と書いてある。僕は辰年。縁がありそうな・・
この面は、形が気に入って娘が持ってった。
一昨日(11月19日)JIA20周年大会で、哲学者内山節(たかし)さんの話を聞く機会があった。
人には三つの記憶があるが、その一つが「生命自体の記憶」。つまり日頃は意識していないが日本人の身体に宿っている、生命活動にかかわる自然信仰、それが祭りや木々を愛でることになっていくという。
JIAの大会だから、氏は、街をつくるときに、この記憶を思いおこすことが大切だと力説されたが、思い当たることがあり、共感できる考え方だ。
旅をしていてふと小さな祠に気を取られたり、人気のない杜に囲まれた小さな社寺に惹かれることが多々あるからだ。それは、沖縄の御獄に踏み込む時に感じ取れる気配でもある。
この道神面は、どれも素朴で愉快な顔をしていて、僕はその造形に魅かれるが、この面が神様だと思うと、なんとも嬉しくなるのだ。フイルムを増感現像するときのデータを貼り付けてある壁に、申し訳ないと思いながらも無造作にかけてあるが、おおらかな神様だから許してくれるだろう。