今朝(11月23日)の朝日新聞「音楽展望」で吉田秀和は、ドイツの知人から送られたマティアス・キシュネライトという音楽家のCDを聴いて、音楽というものは楽譜という「氷の塊」に閉じ込められた生き物で、演奏家は心の熱で音の世界を開放するのだと思わずにはいられないと書く。
そして、庄司沙矢香とジャンルカ・カシオーリがベートーヴェンのヴァイオリンソナタ「春」や「クロイツェル」などをひくのをきいて、これも楽譜の氷の魂をとかして、新しく音楽をとり出してきたような演奏だったと述べている。
吉田秀和の論評は軽やかで臨場感に富んでいて、読む僕の心の襞がふるえ歳をとって書く文章もいつまでもこうありたいと思うのだが、今朝のこの一文には驚嘆した。
二人の演奏を聴いてベートーヴェンはこんなにP(弱音)やPPを要所要所に用意した音楽家だったのだ、と率直に述べる。ベートーヴェン感が変わった、吉田秀和がそういうのだ。
そして二人の音の響かせ方に触れたあと、遅いテンポが独特でチェビリダッケが指揮したブルックナーの交響曲を思い出してしまうと書き、こんな大胆なことは、かつてのシゲティだって、今日のツイマーマンもテツラフもやらないという。
さらにこう続ける。「すざましい緊張の集中があって、アツ!と思った瞬間、音楽は途切れてしまったが、凄い演奏だった」。
読み終わった一瞬僕は、11月16日に北沢ホールで行った「カザルスホールを考える」-音楽家と建築家からみる価値―と題する`カザルスホール`についてのシンポジウムの最後に演奏された「鳥の歌」の終わった瞬間の、息を呑む空気を思い起こした。
ジョン・F・ケネディの前で演奏したパブロ・カザルスのカタロニア民謡「鳥の歌」は音楽界の伝説となっているが、世界で活躍しているチェリスト岩崎洸、堀了介に堀沙也香が加わった三人に岩崎淑のピアノという信じ難いメンバーによる演奏は、しみじみと心を打つと同時に息を呑むような緊迫感があって、終わった後この空気を壊したくないと`間`が起きた。
音楽は凄い。カザルスホールで演奏をしたい、聴きたいという会場の人々の想いが凝縮したのだ。
かつてこのブログでも記したことがあるが、深夜BSで放映された庄司沙矢香のリゲッティのヴァイオリン協奏曲を聴いて動けなくなり、リゲッティという作曲家を知らなかった僕は、その後吉田秀和が`音楽展望`でこの演奏を絶賛するのを読んで、僕の音楽への感性も満更ではないと思ったと岩崎淑さんに伝えると、子供のときから庄司沙矢香さんを指導した淑さんは、何しろ努力家、納得するまでヴァイオリンを離さない子だと慈しむように言う。
磯崎新さんも会場に来てくださったカザルスホールのシンポジウムについては折を見て詳述したいが、コーディネートした僕でさえも様々なことを学ぶことになったのだ。
冬になったと思ったら秋が戻った。今日は少し温かく空が青い。
僕はYO-YO MAのひくボッケリーニのチェロ協奏曲ロ短調を聴きながらこの一文をしたためている。物思うことの多い枯葉舞う晩秋の一日である。
そうですか!10月末に雪ですもんね。冬。それもまた北海道ですねえ!