昨日は終戦記念日、敗戦と言わずに終戦とは!という論考も新聞紙上で垣間見たが、「過去があって現在(いま)があり、現在があって未来がある」と上記と併せて終戦の日のいまの政界陣の様を考えることがある。釈然としない。
現在もすぐ過去になっていくが、1945年8月15日を実体験した人たちが少なくなって、ただの文字の上での記憶になっていくのは致し方がない。それでも何がしかの形で記録としてとどめておくのは、人が「生きていくことを」考える上でとても大切な行為ではないかとも思うのだ。
僕が建築ジャーナル誌で連載をしている「建築家模様」のスタートは、建築家の実像を社会と建築界へ、ことに若い世代に伝えたいという長年の思いが実ったものだが、何人もの建築家に会って話を取り交わすと、いまの建築家の様相だけでなく、建築家のなすことは、過去と現在と未来を考えることに繋がってながることだと、改めて実感することになった。
北海道の建築家「倉本龍彦」の項を脱稿し、大阪を中心として仕事をしている「竹原義二」の項の構想を練り、書き出している。一言書き出すと全体像が見えてくるのだ。文章を書くときの僕の一試行である
倉本は道都大学の名誉教授となり、大阪市立大学の教授だった竹原も退官したが、二人は次代を背負う若者を育て上げてきた言わば建築界の強者だ。
仕事ではとてつもなく厳しい二人の、懐の深い大らかな一面を垣間見て、物をつくる僕たちの仕事の神髄を改めて汲み取ることになった。
僕より若い二人だが、倉本は引退・事務所を閉じ、著作「無有」を著した竹原は、原点「閑谷学校」から記述をはじめ、『還る場所を求めて』という小見出しで再度閑谷学校に触れ、自邸「101番の家」に還りつき、「新たなる建築の旅に出るのである」と結ぶのだ。
僕の興味を引いたのは、二人の建築家の4畳半、つまり一間半(竹原は3、3メートルという数値をいうが)角空間への思いとのその論考、共通項だ。4畳半に廊下・通路をとると3畳になる。その豊かな味わい深い人の住まうことの空間、一見半角つまり4畳半という広さは、ほぼ同世代の傑出した二人の建築家のその原風景なのだ。
<文中敬称略 写真 上:倉本邸 下:101番の家>
現在もすぐ過去になっていくが、1945年8月15日を実体験した人たちが少なくなって、ただの文字の上での記憶になっていくのは致し方がない。それでも何がしかの形で記録としてとどめておくのは、人が「生きていくことを」考える上でとても大切な行為ではないかとも思うのだ。
僕が建築ジャーナル誌で連載をしている「建築家模様」のスタートは、建築家の実像を社会と建築界へ、ことに若い世代に伝えたいという長年の思いが実ったものだが、何人もの建築家に会って話を取り交わすと、いまの建築家の様相だけでなく、建築家のなすことは、過去と現在と未来を考えることに繋がってながることだと、改めて実感することになった。
北海道の建築家「倉本龍彦」の項を脱稿し、大阪を中心として仕事をしている「竹原義二」の項の構想を練り、書き出している。一言書き出すと全体像が見えてくるのだ。文章を書くときの僕の一試行である
倉本は道都大学の名誉教授となり、大阪市立大学の教授だった竹原も退官したが、二人は次代を背負う若者を育て上げてきた言わば建築界の強者だ。
仕事ではとてつもなく厳しい二人の、懐の深い大らかな一面を垣間見て、物をつくる僕たちの仕事の神髄を改めて汲み取ることになった。
僕より若い二人だが、倉本は引退・事務所を閉じ、著作「無有」を著した竹原は、原点「閑谷学校」から記述をはじめ、『還る場所を求めて』という小見出しで再度閑谷学校に触れ、自邸「101番の家」に還りつき、「新たなる建築の旅に出るのである」と結ぶのだ。
僕の興味を引いたのは、二人の建築家の4畳半、つまり一間半(竹原は3、3メートルという数値をいうが)角空間への思いとのその論考、共通項だ。4畳半に廊下・通路をとると3畳になる。その豊かな味わい深い人の住まうことの空間、一見半角つまり4畳半という広さは、ほぼ同世代の傑出した二人の建築家のその原風景なのだ。
<文中敬称略 写真 上:倉本邸 下:101番の家>
ロンドは秋めいてきたようですね!日本は、猛暑、豪雨、そして「干ばつ」という奇妙な現象が重なって厄介な日々を送っています。『建築家模様』を書いていると、本文にはなかなか書けないその余話ともいえる様々な出来事を書いておきたくなります。僕が言うのもちょっと変かもしれませんが、建築家って!と溜息が出ること沢山ありますので・・・
倉本さんはコーヒー党であまりお酒を飲まないんですよね。だから大丈夫なのかも(笑)
僕は酒党でもあり、コーヒー党でもあるのですが、でもあの空間構成、いつまでも心に残りますよね!