日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

見えるもの 鈴木博之の世界

2009-10-31 10:14:42 | 建築・風景

数年前に白内障の手術を受けてから年に2、3回ほどだが、車窓から見る景色があまりにも鮮明に見えることに驚く日がある。空は青くても小春日和だとこうはいかない。

暴風雨の去った翌朝、塵が吹き飛びもやもやしていた空気が一掃されて遠くの山の稜線が明快になり、建物の隙間から普段は見えない遥か彼方の街の姿が一瞬とはいえ眼にできるのだ。線路が高架になったことで視点が高くなったこともあるのだろうが、僕の住むまちの奥深さにハッと驚く。

白内障は加齢症で病気ではないといわれるが、歳をとって手術をしたからこの驚きが得られるのだから不思議なことだ。
一昨日の朝起き上がってカーテンを開けて外を見ると、丹沢山塊が遠近感なしで飛び込んできた。前日の風雨が嘘のように晴れ上がり風がない。この日が来たのだと思った。
こんなに何でも見えていいのかと思うのだが、通勤の電車に乗って見る景色がいつもとは違い、デジャビュエ(嘗て見たことがある)だと言えるような、この景色は見たことがあるという既視感にも襲われた。

その電車の中で、前日の夜開東閣でおこなわれた楽しくて興味深かった(参加メンバーがすごい)鈴木博之教授東京大学定年退職記念祝賀会の記念にもらった「近代建築論講義」(東京大学出版会)を夢中になって読んでいた。この著書に関わった9名+鈴木博之の論考に惹き付けられていたのだ。現在(いま)の建築界、いや日本の社会における鈴木博之の存在が浮き彫りになる。
僕より5歳も若い鈴木博之自体が、歴史研究者の研究対象になりつつあることも微かに感じ取れるのだ。

遠くまで見通せるこの景色が、そして一日を経た今朝、晴天にはなったが小春日和で、ほの温かい空気に近くの稜線はしっかりしているものの、遠くはぼんやりと霞んでいる。そこに実態があるのはわかってはいる。大人の世界だ。そしてこの二つをあわせたのが「鈴木博之」だと思うのだ。僕はこの比喩が気に入り悦にいっている。

この本が面白く多くの示唆を得るのは、若手の記述は律儀で少々堅苦しいものの、難波和彦、伊藤毅、藤森照信、初田亨、石山修武等の各教授、松山巌氏、佐藤彰氏らの記述は、無論要所をきちんとつかんでいるがある意味で破天荒だ。それが面白い。

例えば難波さんとともにこの企画の中心となった伊藤毅東大教授は「はじめに」で`時の経緯`をこんな書き方をした。
「色に例えるならば、十八世紀、十九世紀と言う多色刷りの世紀や爛熟した世紀末の極彩色の重ね合わせのなかから、やがてモダニティという名の高い明度と低い彩度持つ色が卓越的に浮かび上がり、それが資本や機械などの神話的な合理性を象徴する標準色としてあらゆる世界を塗りつぶしていく時代が近代であったとすれば、われわれがその延長上にあると思われる現代を生きるということは、建築の分野に即していうと、近代建築や近代都市が近代都市が塗りつぶしたかに見える絵の具の層を一枚一枚剥ぎ取りながら、あるいは絵の具の塗り残しの断片から近代とは何であったかという問答を繰り返すことにほかならない」

長いフレーズにも驚くが、この比喩は言い得て妙で僕は感心しながら何度も読みかえした。
そして鈴木博之教授の論考は噛んで含めたように解りやすく、まさしく「講義」。この本は僕のように1年に2、3回しかクリアな景色を見ることができない小春日和の建築家にとっても、建築に関心を持つ多くの人にとっても必読書だと言いたい。(10月25日記、この項続く)