ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

田中英道氏の発見 - 2 ( 邪馬台国の否定 )

2019-01-28 22:25:25 | 徒然の記

 やはり私にとって田中英道氏の発見は、考えていた以上にときめくものがあります。

 あれ以来ネットで、氏の講演の動画を探し、少しずつ見ていますが、愉快でなりません。戦後の歴史は、マルスク主義の学者が唯物史観で日本史を作り替え、日本の伝統や文化を壊してしまったと、相変わらず意気軒昂です。

 「私は、思いつきで意見を述べているのではありませんよ。」「そこいらの素人が、何年か本を読んで、邪馬台国が九州だとか、近畿地方だとか、」「いろいろ好きなことを言っているのとは、訳が違います。」「私は、日本の古い遺跡を調査し、古来からの神社を訪ね、」「そこから出土したものや、残された文献を、何十年も研究しています。」

 「だから、学者としての命をかけて、意見を述べています。」「日本での一番の問題は、遺跡や遺物を調べる考古学者と、古文書を研究する歴史学者が互いに協力せず、意思の疎通を欠いているところにあるのです。」

 「戦後の歴史学者は、文字のなかった日本の古代を、まるで未開の野蛮時代でもあったかのように、無視し、古墳時代なんて、勝手な名前をつけています。」

 「しかし考古学者は、縄文時代の焼き物や、弥生時代の古墳から発見される土器、」土偶、銅鐸などを丹念に調べ、」「文字がなくても、日本に、素晴らしい文化があったことを知っています。」

  考古学者と歴史学者が協力し合えば、日本の歴史はもっと正しく見直されると、氏は言います。喋り方が少し、皮肉っぽいため、投げやりに聞こえますが、意見としては正論です。

 前回は、「秦氏はユダヤ人である。」と断定し、私を驚かせましたが、今回は、「果たして、卑弥呼と邪馬台国は、存在したのか。」と言い、私の心を奪います。昨年の10月、武光誠氏の著書、『日本の神々の謎』を読み、その時ブログにこう書きました。

 「氏の著書を読む以前から、素朴な疑問がありました。」「それは、卑弥呼の邪馬台国と、大和朝廷の関係です。」

 武光氏の説明はとても詳細でしたが、疑問には答えていませんでした。

  「邪馬台国の卑弥呼が死んだのは、西暦240~249年で、」「日本の歴史が、文字として詳しく書かれ、明らかになるのは、592年(飛鳥時代)以降だ。」「では、249年~592年の間、日本で何が起こっていたのか?」「じつは、確かなことは何も分かっていない。」「この間、中国の文献から、倭の記述が消えてしまったからだ。」

 「そのためこの期間は、" 空白の4世紀 " と言われている。」「ただ、中国・二十四史を丹念に読めば、少なからず倭の記述がある。」「そして、その中に、この時代を明らかにする鍵が含まれているのだ。」

 「邪馬台国の場所は、九州北部に間違いないだろう。」「さらに、卑弥呼が死んだ後も、邪馬台国または、邪馬台国を継承した九州政権が存続し、」「中国に朝貢したことも、確かである。」「また、同じ頃(西暦300年)、奈良盆地に、」「大規模な前方後円墳が出現する。」

 「前方後円墳は、大和朝廷の象徴なので、この頃、奈良に大和朝廷(ヤマト王権)が興ったことは間違いない。」「そして、この王権が飛鳥時代に継承され、今の皇室につながっている。」

 武光氏の説明では、いつ、どのような形で、権力が継承されたのか分からず、邪馬台国と大和朝廷の関係もハッキリしません。それを田中氏は、大胆にも、「卑弥呼も、邪馬台国も、存在しなかったのではないか。」と、語ります。

 息子たちに言います。お前たちは、父以上に古代史を知らないはずだから、頭の整理を、もう一度試みてください。関係する重要な年代を、列挙します。

  西暦238年  卑弥呼の邪馬台国成立      < 西暦280~297年 魏志倭人伝  >

  西暦574年  飛鳥時代 推古天皇 聖徳太子

  西暦673年  白鳳時代 天武天皇

  西暦712年  古事記の編纂  天武天皇 太安万侶 稗田阿礼

  西暦720年  日本書紀の編纂 正史 舎人親王 

  西暦783年  万葉集の編纂    大伴家持 持統天皇? 柿本人麻呂?

 日本を統一した邪馬台国は、本当にあったのかと、氏が疑問を抱く根拠は、

   1. 日本中の古墳を調べても、卑弥呼と邪馬台の関連品が出土しない。

     2. 古来からある神社の、文書、伝承、遺物を調査しても、卑弥呼と邪馬台に関するものが出てこない。

     3. 古事記、日本書紀に、魏志倭人伝が引用されているが、卑弥呼と邪馬台に関する叙述がない。

   4. もしも、卑弥呼と邪馬台が現存するのなら、いずれかの風土記の中に記載されているはずなのに、書かれていない。

   5. 日本の歴史学者は、魏志倭人伝を、過大評価しているのではないか。

 この意見は、学者として正論だと思います。息子たちに言います。古事記や日本書紀が、皇室の正当性を語る歴史書であるとすれば、全国各地にあった風土記は、地方を支配した豪族たちの、正当性を示す彼らの歴史書です。

 卑弥呼が日本を統一していたのなら、記紀のみならず、どこかの国の風土記に記載があると考えるのが自然な話です。従って私は素人ながら、武光氏より、田中氏の意見に同意します。これはいつもの偏見でなく、庶民としての常識から出る判断です。

 古代史についてこれ以上語ると、戦後生まれのお前たちが、あくびをしてしまいそうなので、親バカの私はここで一休みします。しかし、明日は続きをやります。世間の親バカと違い、私は結構頑固者で、可愛い子にはわがままを許しません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 共同通信の記事は、国民への... | トップ | 田中英道氏の発見 - 3 ( 『... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

徒然の記」カテゴリの最新記事