ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日航機123便墜落事故 - 27 ( 『日本弱体化計画の手引書』 )

2024-07-17 18:56:32 | 徒然の記

   〈 日航機123便墜落事故に関する「ねこ庭」の意見 〉   

 ヴォーゲル氏は著書の「まえがき」で、次のように述べています。

 「私の研究については、沢山の日本の友人たちにお世話になった。」

 氏はハーバード大学の強力な人脈を活用し、日本の著名な教授や学者、政界のリーダー、官界のエリートたちと対話を重ねた上で、この本が完成したことに謝意を表しています。

 具体的な大学名、省庁名、個人名は書かれていませんが、多くの日本人が積極的に協力しています。いつもなら「ねこ庭」では、こういう日本人を「裏切り者」と言いますが、事実はそうでなさそうです。

 氏自身が魅力的な個性を持つアメリカ人で、前向きな学者だったらしく、周囲の日本人を引きつけていたようです。「まえがき」の部分を読んだ時、吉田元総理の言葉を思い出しました。

 総理は著書『日本を決定した百年』の中で、GHQ内のアメリカ人を次のように評していました。

 「彼らは典型的なアメリカ人として、精力にあふれ、楽天主義に満ちた人々であり、本質的な善意のため、日本人の尊敬と協力を得るのに成功した。」
 
 「彼らは、古い政治構造を破壊し、徹底的な社会改革を行うことが、日本人の生活にどんな影響を与えるかについても、単純に、楽観的であった。」
 
 おそらくヴォーゲル氏は、自分の来日目的が日本研究にあることを隠していなかったのだと思います。
 
  ・アメリカはほとんどの分野において、日本よりもずっと先を行っていた。
 
  ・研究能力の点でも、創造性の点でも比べ物にならず、天然資源、人的資源は、共に十分すぎるほど豊かであった。
 
  ・第1 回目の来日から15年経った、第2 回目の1975 ( 昭和50 ) 年後に帰国した時は、日本の友人たちに指摘されるまでもなく、私自身が一体アメリカはどうなっているのかと、疑わざるを得ない状態であった。
 
 氏の2 回目の来日は、昭和50年から51年にかけての2年間で、三木内閣の時です。氏の著作は、帰国2 年後の昭和54年に出版されています。
 
 当時の氏が日本をどのように見ていたのかを、「まえがき」で書いています。
 
  ・この同じ時期、日本はGNPの点では世界一ではないし、政治の面でも、文化の面でも、世界の指導的立場に立つ国となり得ていないのは確かだった。
 
  ・しかしながら日本の成功を、いろいろな分野において仔細に検討してみると、この国はその少ない資源にも関わらず、世界のどこの国よりも脱工業化社会の直面する基本的問題の多くを、最も巧みに処理してきたという確信を持つに至った。
 
  ・私が日本に対して世界一という言葉を使うのは、実は、この意味においてなのである。
 
 氏が日本を訪れた第 1 回目は、昭和33年から34年の岸内閣の時です。この時点と2回目 ( 三木内閣 )の印象が、いかに大きかったかということになります。
 
 日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954( 昭和29 )  年の鳩山内閣から、1973( 昭和48 )年の田中内閣までの、約19年間だと言われています。この間には「神武景気」、「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造景気」、と呼ばれる好景気が続きました。
 
 私が大学を卒業した昭和44年は、高度成長期の最中でした。「もうお金はいらないから、休みが欲しい。」と、泊り込み勤務が続く日々に、ため息が出た思い出があります。
 
 日本中がどこも人手不足で、殺気立つほど忙しく活気に満ちていました。
 
 現在も多忙で、人手不足と言われていますが、大きく違っているのは若者たちの給料です。当時の経営者も従業員を酷使しましたが、時間外や休日出勤などの計算を誤魔化さずキチンと払ってくれました。
 
 当時の私の月々の給料は、時間外と休日出勤手当を合計すると、ぼぼボーナス相当の金額になりました。働いても貧しいままで先が見えないという、今の若者とは雇用形態が違っていたのです。
 
 ヴォーゲル氏は2回にわたる来日で、日本の雇用形態、会社組織、官僚組織など、克明に調べ『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書き上げました。
 
 氏自身に日本への悪意はなかったのかもしれませんが、アメリカの政府や企業家にとっては絶好の研究書になりました。氏が日本の長所として挙げているものを破壊すれば、アメリカを凌駕し「世界一」になろうとする日本を、抑え込むことができたからです。
 
 だから「ねこ庭」では、氏の著書名を『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言わず、『日本弱体化計画の手引書』と呼びます。アメリカは「日航機墜落事故」を利用し、氏の手引書に書かれた通りの日本弱体化政策を押しつけました。このパターンは、大東亜戦争時に勝利しつつあった日本に、ルーズベルト大統領が「ハルノート」を突きつけた状況に似ています。
 
 働いても楽になれない若者の中に、三人の息子たちが含まれていますから、「日航機墜落事故」を契機とした「日本弱体化計画」を検討することは、他人事でありません。
 
 次回は「日本弱体化計画」の内容を紹介し、「日航機墜落事故」後に出された米国の要求と酷似している事実を、明らかにできたらと考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする