写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

会 釈

2006年06月18日 | 生活・ニュース
 今朝の日経新聞を読んでいると、「マナー入門・会釈で互いに気持ちよく」というコラムがあった。

 「会釈で相手を立てる気持ちをさりげなく伝えたい。見知らぬ人も爽やかな気持ちになれる振る舞いを心がけたい」と書いている。

 毎夕のハートリーとの散歩道、やはり散歩をしているいつもの人に出会う。話をしたことはないが、会釈をするとそれを返してくれてすれちがう。

 自転車で細い道を走っていると、前方を歩いている人の後ろに迫る。小さな音でベルを鳴らす。

「すみませ……」の「すみ」だけが聞こえる程度に声を出して会釈をしながら追い越していく。これくらいのことで、お互いが爽やかな気持ちになれる。

 大した動作でもないのに、会釈の効果は思っている以上に大きなものに思える。「会釈」とは、 軽くあいさつや礼を交わすことと理解していた。

 念のために辞書を引いてみた。「相手に心配りをすること。思いやり。斟酌」とも書いてある。

 なるほど、辞書に書いてある通りのことが新聞に書いてあった。動作としては、軽く頭を下げる程度のことであるが、相手に対して心配りをしていることになる。

 新聞を読んだ後、ハートリーの朝の用を足しに表に出た。土曜日の朝とあって、通勤・通学の人は誰もいない静かな朝であった。

 70mくらいも離れた声の届かないところの家から、奥さんが自転車を押して道路に出てきた。

 こちらに顔が向いたと思ったとき、大きく腰を折り曲げての挨拶をされた。こんなに離れた距離であれば挨拶はしなくても、それで済んだかも知れない。

 会釈くらいでは、挨拶として分かってもらえないと思ったのだろう。大げさに思えるほどのオーバーなお辞儀であった。

 私もあわてて、それと同じくらい大きく腰を曲げてのオーバーな挨拶を返した。まるで劇団俳優のような所作に思え、苦笑する。

 会釈も、交わす相手の距離に応じて軽い挨拶が、重い挨拶に変わることもある。おかげで今日はもう、腰の屈伸運動の必要はなくなった。

 自分に心配りをしてくれて怒る人はいない。会釈をされてシャクに触る人はいない。軽い運動にもなる。この知恵を活用しないという手はない。
    (写真は、いつも会釈をしている「思いやり人形」)