写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

「愛妻の日」

2013年01月31日 | 生活・ニュース

 昨日(30日)の朝、新聞を読もうとして大きく広げたとき、1枚の広告が落ちた。拾い上げてみると、サラリーマンらしき若い男が、左手に赤いバラの花束を、右手にはビジネスバッグを抱えて、いかにも家路を急いでいるように駆けだしている写真が大きく写っていた。

 見出しには「1月31日は『愛妻家の日』」と書いてあり、その上に小さな文字で「愛妻家には、花が似合う。『ありがとう、愛しています』愛する妻へ日頃の感謝をお花に込めて『愛妻家の日』におくってみませんか?」とある。

 ネットで「愛妻家の日」を調べてみた。「妻という最も身近な存在を大切にする人がふえると、世界がもう少し豊かで平和になるかもしれないという理想のもとに、日本独自の伝統文化かもしれない愛妻家というライフスタイルを世界に広めていこうと日本愛妻家協会が行う文化活動」とある。

 ではなぜ1月31日なのか。1を「アイ(愛)」、31を「サイ(妻)」と読んだものだという。うまく読みなおしたものだと感心した。夫婦の日といえば、よく知られた日がある。11月22日で「いい夫婦」と読むゴロ合わせだ。こちらは、日本中の夫婦に一層素敵な関係を築いて頂きたいという思いから設定したものだという。

 いまどき、1年365日、毎日が「○○の日」というように何かの日になっている。毎日を漫然と暮らしていても、このカレンダーを眺めておけば、奥さんに対してはもちろんのこと、父母に対しても、子供に対しても、お釈迦さまに対しても、国に対しても、あらゆるものに対して、不用心から心配りを怠るようなことはないようになっている。

 さて私、この写真の男のようにバラの花束なんぞを奥さんに持ち帰ったような記憶はない。常々、奥さんの存在や面倒見に対して心から感謝はしているものの、それを花束などの形としてはもちろんのこと、言葉でさえ表現したことはない。

 今日は1月31日。まさに「愛妻家の日」だ。思い切って言ってみよう。「いつもありがとう。愛してるよ」と。「どうしたの? 風邪で熱が出たのじゃあないの?」とのお言葉が返ってきそうだ。


余白率

2013年01月30日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 またまた自費出版の話で恐縮だが、本を手作りしてみるといろいろなことに気が付く。これまでに作ってきたものを並べて、ぱらぱらとめくってみた。それぞれを本の形にするたびに、良かれと思う改良を試みてきた。

 8冊目を作ったあと、あることに気が付いた。ページの周りにある余白の取り方である。本の大きさはB6版で、縦が18.2cm、横が12.5cmある。最初に出版した本の、文章が書いてない余白部分の紙面全体に対する面積割合(余白率)を計算してみると、38%であった。

 その本を手に取って眺めてみると、上下左右の余白が少なく、いかにしても文字を詰め込み過ぎた感じがする。そんなことを感じていたので、最近作っているものは縦の文字数を1文字、行数を1行減らして作ってみた。出来上がった本を開けてみる。

 どのページをめくってみても広々としていて圧迫感がなく読みやすい。ちなみに、この余白率は47%であった。文字部分としては僅か縦1文字、横を1行を減らしただけであるが、余白率がずいぶん変わるだけでなく、見た目が大きく違うことが分かった。

 読みやすい本を作るには、この余白率以外にもう一つ大切なことがある。文章を書きこむ領域に、文字を詰め込み過ぎないことである。適当に段落を作り、行を変えて文字列にも適当な空白を設けることだ。言ってみれば、暑苦しくなく、風通しの良い涼しげな感じの紙面にすると読みやすく感じる。

 エッセイなど、広い年齢層の人に読んでもらうためには、何よりも読みやすい書き方を心がけたい。余白率は、本を広げたときの直感的な印象であるが、文章中の漢字とひらがなの比率も、読み易さに大きな影響を与えるが、これは本の体裁の話ではないので、ここでは略す。

 私は名刺の肩書きのひとつに「自費出版コンサルタント」と書いて遊んでいる。ちなみに、コンサルタント料は無料。今まで相談に来たお客さんは4名。内3名は、私のものより立派な本を出版され、ちょっと複雑な心境である。残りの1名は、近々出版予定とか。自費出版を志している方、少しは参考になりましたか。


「岩国 in 宝石箱」

2013年01月24日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 2004年11月に日経新聞でブログというものがあることを知り、このような形でエッセイを書くようになった。以来8年間、書いてきたエッセイの数はというと……合計すると1877篇、平均すると1年間で234篇書いてきたことになる。昨年は160篇、数が少なくなった分、文章がやや長くなってきている。とはいいながら、ひところの勢いはない。

 書いてきたブログの初めの3年分は1年ごとに編集し、3回にわたって各100部自費出版して本屋さんで販売してもらったという面映ゆい思い出がある。その後の4年分は、自費出版こそしなかったものの、手作りの製本機を活用して本にし、書棚に並べて自己満足の世界に浸っていた。

 その延長線上で、昨年のものも同じように製本してみた。B6版で270ページのものが出来た。本を作るにあたっては毎回悩むことがある。どういったタイトルをつけるかである。これまでは、その年で一番印象に残った出来事にかかわるタイトルををつけてきた。

 3年前のものは「投げた賽」、岩国検定を民間有志でやろうと決断し、退路を断ったことをタイトルにした。2年前のものは「愛された理由」とした。10年間相棒を務めてくれたハートリーが旅立った年で、誰からも愛された理由を書き残したブログから取ったタイトルである。

 さて、昨年のものは何というタイトルにするか。ちょっと考えただけで「出来事」は直ぐに決まった。岩国検定の実施とそのテキストブック「いわくに通になろう」の製作・出版活動である。好評裏に400部を完売した折、「日刊いわくに」という地方紙のコラムで、この本を高く評価してもらったことがあった。その文中に「まさに宝石箱のような本だ」と書いてもらっている。

 「そうだ、その通りだ。この宝石箱の中に、キラキラ輝く岩国のことが散りばめられている!」。そう思い、一も二もなく今回の本のタイトルは「岩国 in宝石箱」と決めた。厚紙で表紙を作り手に取ってみると、過去1年間の活動が目の前でよみがえってくる。これこそが世界で1冊の、まったく独りよがりの本の完成だ。またぞろ、完売の当てもなく、自費出版なんぞを考え始めているが、さてどうなることか。


緩んだネジ

2013年01月22日 | 生活・ニュース

 ダイニングルームの入り口には、天井までの高さがある木製ながらも重いドアがある。1日に何回このドアを開閉するだろうか。家を新築以来、実質住んでいる年数は15年。妻と2人で1日30回は開閉している。とすれば、今までの総計は約17万回になる。

 そのドアが時に「ギー」と不満そうな音を出すことがあった。その都度、ヒンジやドアチェッキなどの摺動部に油を差して対応をしてきた。ところが先日、今まで聞いたことのない「グウィー」という低く太い音を出すようになった。直ぐに油を差してみたが解決しなかった。

 丸椅子を持ち出して、天井に取り付けてあるドアチェッキを真近で点検してみて驚いた。金属製の平板が4本のネジで天板に締め付けてある。いずれもが緩んでいて、その内2本は1cmくらい飛び出している。これほどまでにネジというものが緩むものなのか。直ぐに工具箱を持ち出して力いっぱい締め込んだ後、ドアを開閉してみると音もなく元の状態に戻った。

 車や機械に取り付けてあるネジが、使用しているときに振動で緩むことはよくある。それを防ぐために、ある力以上できちんと締めるとか、緩み止めのための接着剤を塗布するとか、緩みにくい構造をした特殊な形のネジを使うとかいろいろな対策を取っている。

 家のドアには、それほどの振動などはないが、それでもこんなに緩むことがあることが分かった。わずかな振動でも回数が重なると思ってもみないことが起きるものだ。こんなことを今、おおげさに書いているには訳がある。一昨日の夕方あたりから、のどに少し違和感を感じ始めていた。

 その夜、寝ている間中、鼻が詰まって喉に落ちてきた。翌朝、熱はないが身体がだるく喉が痛い。こんな時はいつものように、買い置いている風邪薬「ルル」を3錠飲むと、直ぐに治ったものだ。しかし今回は毎食後に3錠飲んでみるが直らない。こんなことは何十年振りだろう。咳が出るなどすっかり風邪の症状が続く。

 このところ風邪などとは無縁に過ごしてきたが、本当に久しぶりに風邪を引いてしまったようだ。考えてみると、私の生活態度のどこかが緩んではいないか。そういえばここ3年間は年初から課題山積の中で気が張っていた。今の私は、何一つ課題もなく無気力のど真ん中だ。身体のどこのネジを増し締めすればいいのだろうか。緩んだネジを早急に探さなくては。


当たり前か?

2013年01月21日 | 生活・ニュース

 「右足を出して左足出すと……歩ける~!」「両足の膝を一緒に曲げると……座れる!」「手首を前に何回か曲げると……人来る!」、最近テレビでよく見る「当たり前体操」の歌詞である。当たり前すぎる内容にあわせて体操するお笑いコンビのCOWCOW人気ネタだ。

 漠然とこのシーンをテレビで見て笑っていた。当たり前過ぎることを、さも新しいことを発見したかのように体操をしながら歌うところが滑稽であった。そんな中、今朝(20日)の毎日新聞の1面にある「余録」を読んで、「1本とられた!」というほど痛烈な刺激を受けた。

 「高校生による、ちょっと変わったサッカーのリーグ戦が東京で続いている」という。このリーグの創設者は筑波大付属高サッカー部顧問の中塚さんで、「最後の大会」が終わると3年生が引退することに疑問を持った。サッカーが高校生活の一部になっていないと考え、「引退なし」のスポーツライフの実現、つまり「サッカーの生活化」を目指した。勝利指向のチームから一歩踏み出し、サッカーが好きで、もっとうまくなりたいという子どもたちが集まるのが部活動だ。「引退」は、卒業する時であるという。

 これを読んだ時、ハッとした。サッカーもそうなのだろうが、日本中を沸かせる夏の高校野球も、甲子園大会が終われば3年生は引退する。直ぐその後に開催される秋の県大会には3年生は出場しない。高校の部活動として、丸3年間野球をしっかりやりたいにもかかわらず出来ない思いをする3年生は多いのではないだろうか。

 中塚先生はこのことに気付き、その対策をすでに実行に移している。この余録を読むまで、高校野球部の3年生は夏の大会後の引退は「当たり前」だと思い込んでいた。卒業までの残り半年、野球少年が好きな野球の試合が出来ないことに私は何の疑問も感じていなかった。

 「当たり前」体操で笑わせているあの歌詞も、全ての人に対して必ずしも「当たり前」なことではないが、 身の回りのことで一見して「当たり前」に見えることを見直してみれば、おかしなことは、まだまだあるような気がする。いつどこで私は洗脳されていたのだろうか。COWCOWの責任ではない。