先日、知人宅を訪ねた。門の前の駐車場に車を止めて降りた時、フェンスの向こうに、目のくりくりとした子犬が嬉しそうに立ち上がっているのが見えた。
あたかも歓迎してくれっているかのように見え、思わず「おおっ、かわいい」と声が出た。近づいてみると、何ということか犬ではない。犬によく似た植え木の幹であった。
「植え木の幹が、まさか犬に見えるとは。目が悪いんじゃないの?」そんな声が聞こえてくるのは当然だが、しかしまずはこの写真を見てほしい。口を開け、つぶらな瞳。その瞳の真ん中は光を反射して白く輝いている。どう見ても子犬にしか見えない。
これこそ木の犬、「木犬」である。「木鶏」とは時に聞く言葉である。荘子に収められている故事に由来する言葉で「われ、いまだ木鶏たりえず」などと言い、木彫りの鶏のように全く動じることがない。闘鶏における最強の状態をさす言葉だ。
では木犬とは? 何事にも動じない精神的に最強の犬といえばよいのか。ハートリーに見せてやりたいような木犬である。私も時には「われ、いまだ木鶏たりえず」くらい言ってみたいが、こんなことが言えるほど精進しているものを持ち合わせていない。もっけの幸いなどとしゃれている場合でもない。ところで♪この木、何の木? 気になる木ではある。
(写真は、びっくりさせられた「木犬」)
あたかも歓迎してくれっているかのように見え、思わず「おおっ、かわいい」と声が出た。近づいてみると、何ということか犬ではない。犬によく似た植え木の幹であった。
「植え木の幹が、まさか犬に見えるとは。目が悪いんじゃないの?」そんな声が聞こえてくるのは当然だが、しかしまずはこの写真を見てほしい。口を開け、つぶらな瞳。その瞳の真ん中は光を反射して白く輝いている。どう見ても子犬にしか見えない。
これこそ木の犬、「木犬」である。「木鶏」とは時に聞く言葉である。荘子に収められている故事に由来する言葉で「われ、いまだ木鶏たりえず」などと言い、木彫りの鶏のように全く動じることがない。闘鶏における最強の状態をさす言葉だ。
では木犬とは? 何事にも動じない精神的に最強の犬といえばよいのか。ハートリーに見せてやりたいような木犬である。私も時には「われ、いまだ木鶏たりえず」くらい言ってみたいが、こんなことが言えるほど精進しているものを持ち合わせていない。もっけの幸いなどとしゃれている場合でもない。ところで♪この木、何の木? 気になる木ではある。
(写真は、びっくりさせられた「木犬」)