写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

さくら

2021年03月30日 | 生活・ニュース

 3月に入った途端、身辺にいろいろなことが起きた。連日その対応に努め、全てが無事に解決し、気がつけばもう3月の終わり。古い新聞を取り出して読んでみると、今年の錦帯橋の桜の開花日は、3月18日と出ている。

 それから11日後となる29日の月曜日、散歩がてら錦帯橋に出かけてみた。時おり吹いてくる強い春風に数片が舞い散る程度で、今が真っ盛りに咲いている。上河原には、そこかしこに2~3人の家族連れが弁当を広げている。大勢が車座になって大声を出しているようなものはいない。

 さすがにコロナ禍である。皆さん節度を保って花見を楽しんでいる。暖かい日差しを浴びながらお茶を飲み、奥さんと2人だけの花見を楽しんで帰ってきた。絶好の花見日和ではあったが、人出は随分少なかったと夕方のテレビが伝えていた。

 今年の錦帯橋には、例年よりも一足早く、そして静かに春がやって来た。さて、今日は何をして過ごそうか。少しなまった体に、気持ち鞭を入れてみよう。


岩国検定の残り火

2021年03月13日 | 岩国検定

 2010年の1月に10人の仲間と「岩国検定」というご当地検定を立ち上げて、その年の11月に第1回の検定試験を実施した。その後2012年と2014年に試験を実施して以来、受験者が減ってきたのを機会に活動を休止している。

 世代が代われば又ぞろ始めてもいいのではないかと思い、全ての資料は大切に保存し、新しい情報など追記したりしている。そんな中、突然見知らぬ人から電話がかかってきた。

 「岩国検定の事務局ですか?」という。周南市に住む若々しい声の男性からであった。過去、周南市と山口市の検定を受験したことがある。岩国検定も受験したいというが、現在は休止している旨を説明する。

 検定というものに非常に熱心なので「失礼ですがお年は?」と聞いてみると、昭和13年生まれ・82歳だというではないか。未だ現役で、公民館で仕事をしているという。「声を聞いて60歳くらいの方かと思いました」と言っておいた。

 「それほど岩国検定に興味をお持ちでしたら、メールで検定の参考書と、3回分の問題集をお送りしましょうか」と言った。「是非お願いします。おいくらでしょうか」「代金は結構です。お暇な時に目を通してください」と鷹揚に答える。

 住所も氏名もメールアドレスも、年を感じさせないくらい的確に伝えてくれる。電話を切る前に一つ質問してもいいですかと言って「毛利本藩は最後まで、なぜ岩国を『藩』と認めなかったのですか」と聞いてきた。

 関ケ原の戦いのとき、吉川広家が徳川側に有利となるような行動をとったことに端を発したものであったが、時は移り、岩国12代藩主・経幹が四境の役・芸州口の戦いで挙げた功績が認められて、岩国領は悲願であった岩国藩となった、と簡単な説明をしておいた。

 振り返って見ると、岩国検定を休止してから早くも6年が経っている。それなのに、岩国検定に係る問い合わせが入ってくる。あと4年で10年が経ったころ、再び岩国検定をやって、岩国を愛する人に岩国の歴史や文化などに興味を持ってもらいたいものだと思っている。


運否天賦(うんぷてんぷ)

2021年03月12日 | 生活・ニュース

 徳川家康の良く知られた遺訓がある。「人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ」という意味のことが書かれている。

 昨日、いつものように奥さんと2人で裏山の散歩に出かけた。その都度、夫婦連れや仲間と連れ立って上る何組かと挨拶したり、少し立ち止まってその日の天気やよもやま話をしたりする仲となっている。

 裏の団地に住むKさんが、白いスポーツウエアを着て、竹の杖を突いて下りてくるのと出会った。1年以上も顔を見ることはなかったが、元気そうな足取りである。お母さんと2人だけの住まいであるが、5年前にお母さんが脳梗塞で倒れたあと、1人息子で独身のKさんが自宅で面倒をみていることは以前聞いていた。

 「お母さんはどんな様子ですか?」と聞いてみた。相変わらず左半身は不随だが、週に5日はデイサービスに通っているので助かっていると、笑顔混じりで話してくれる。Kさんの顔色もよく、大変な苦労もあるのだろうが顔に出すこともない。

 別れ際に「わしゃあ、若い頃にゃあやんちゃして、お袋には随分苦労をかけたが、今、もとを取られよるよ」と笑う。すかさず私は「人間の一生は、最後になると、苦労と楽の帳尻が合うといいます。いろいろな苦労は、やってくる時期が早いか遅いかだけで、あなたは今、その帳尻を合わせているのでしょうね」と言うと「そうかもしれんね」と笑顔で手を振って別れた。

 長い人生である。いいことばかりの人生なんてありえない。逆に、悪いことばかりの人生もない。人は苦労して生きているときには、きっと楽な時が来ると信じて生きていく。楽に生きているときには、いつやって来るか分からない苦労を最小限に出来るような生き方を心掛けて生きていく。

 そのあとは運を天に任せるしかない。運否天賦というではないか。時はまさに入学試験の合格発表の季節。ベストを尽くした後はまさに運否天賦。合格したからと言って奢ることなく、失敗したからと言って落胆することはない。「人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなもの」である。頑張ってさえいれば急に荷が軽くなる日はきっとくる。

 

 

 


ニセアカシア

2021年03月06日 | 季節・自然・植物

 裏山の散歩道の2合目に、ミモザの木が1本ぽつんと立っていて、数日前からポンポンのような小さく丸い黄色の花が咲き始めている。4合目にある林には、背の高いアカシアの木が10本ばかり群生している。5月になれば、藤のように房状の白い小花を沢山咲かせる。

 アカシアと言えば、中国の大連で生まれた私にとっては忘れることのできない花である。街路樹には、どこにもアカシアが植えられていたことを覚えている。引き揚げた後も母から「アカシアの花房は、よく天ぷらにして食べていた」と何度も聞かされていた。

 ところが十数年前、私が知っているアカシアは本来のアカシアではなく、マメ科ハリエンジュ属の「ニセアカシア」といい、和名は「ハリエンジュ」というものであることを知った。

 明治期に日本に輸入された当初は、このニセアカシアをアカシアと呼んでいた。後に本来のアカシアの仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになったという。

 では、本来のアカシアとは一体どんな花なのか。本来のアカシアの花とは、放射相称の形状で黄色をした「ミモザ」のことだという。

ミモザとは、フサアカシアなどのマメ科アカシア属の植物の俗称。昔、イギリスで南フランスから輸入されるフサアカシアの切花を「mimosa」と呼んだことから誤用された。日本で使われている「ミモザ」という言葉は、「アカシアの仲間の花」を総称した言葉である。

 本当のアカシアは「ミモザ」のことで、長い間アカシアだと信じ込んでいたものが「ニセアカシア」だったとは。あたかも育ての親を生みの親だと信じていたのに、長じて、そうではなかったことを知った時の感情にも似た思いであったが、これはこれですっきりとした。

 ミモザの花は鮮やかな黄色い花。ポンポンのような小さく丸い花が集まって咲く。3月8日はイタリアでは「ミモザの日」となっていて女性に感謝を伝える記念日だという。ミモザの花言葉は、ずばり「感謝」。

 それにしてもニセ呼ばわりされている「ニセアカシア」の立場はどうなるのか。大連の街路樹や若いころから歌ってきた「アカシアの雨がやむとき」「赤いハンカチ」、白秋の「この道」など数々の歌にある「アカシア」は、全て「ニセアカシア」を歌ったものだというではないか。「ニセ」と名が付けられてはいるが「ニセアカシア」は、私の心の中ではやっぱり正調な「アカシア」である。
   (写真は「ミモザ」)

 

 


八重山神社

2021年03月03日 | 旅・スポット・行事

 日曜日の夜、今人気のある「ポツンと一軒家」というテレビ番組を見ていた。今回は島根県の出雲の山奥に住む老夫婦の物語であった。場所は 雲南市の掛合町入間で、冬は雪深いが江戸時代から住んでいる。昔は、たたら製鉄や炭焼きで随分と賑わったようであるが、今はたった一軒でひっそりと暮らしている。

 近くに、巨大な岸壁に張り付くように八重山神社という立派な神社が建っている。テレビ局のスタッフをこの神社に案内した。昔から、氏子のいない神社であり、牛馬の守護神として崇敬されてきた。岩窟の中に建つ八重山神社への苔むした長い石段は、さながら幽玄の世界へ誘われるようである。

 神社に登る石段の下に、一瞬、テレビの画面に神社の案内板が映った。書かれている文字の中に「宇野千代」という文字が目に入った。「あっ、宇野千代と何か関係がある神社なのか」と思い、番組が終了した後、ネットで調べてみた。

 宇野千代が書いた『八重山の雪』という小説がある。文藝春秋から昭和50年に発行された『薄墨の桜』に収録されている。主人公は「はる子」という女である。大平洋戦争終結後、松江市の古志原にあった63連隊の跡地に駐屯していたイギリスの兵隊ジョージと知り合う。はる子は或る男と結婚することになっていたが、それを振り切ってジョージと岡山に逃げた。しかし直ぐに連れ戻されるが、ジョージは軍隊を脱走し、はる子と暮らし始める。父が、2人を飯石郡(現 雲南市)掛合町入間にある八重山の遠縁の家に住まわせる。ジョージは炭焼きを始めた、という小説のようである。

 「最初の仕事場は、あの、牛の神さまと言うて諸国のお人に知られています、八重山神社の裏手を廻った奥山でございました」と書き出しているという。この作品は実話であると言われている。

 宇野千代は、まさにこの場所を舞台にした小説を書いていたことを、ひょんなことから知った。調べてみると雲南市には、温泉宿もあり見どころもあるところのようである。いつか機会を見て是非この八重山神社を尋ねてみたいと思わせるような佇まいである。テレビ番組を見ていて、「ひょうたんから駒」ならぬ「ポツンと一軒家」から「宇野千代ゆかりの地」を見つけたという、たわいないお話である。