写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

折れた枝

2021年04月12日 | 季節・自然・植物

 33年前、家を建てたとき、奥さんが狭い南の庭に紅白2本のハナミズキを植えていた。土地との相性がよかったのだろうか、すくすくと成長し、今では背丈は6、7mほどになっている。

 ハナミズキの寿命は長く、約80年だと言われている。それであれば我が家のハナミズキはまだ若い方だと言えるが、紅い花をつける木は、ここ数年、花の数が少しずつ減ってきていたり、小枝が枯れてきているのが気になっている。

 その木が、素晴らしい気力を見せてくれているのに気がついた。一昨年の秋のことである。出窓から見える太い枝に、長さが50cmばかりの細い枝が1本上向きに伸びていた。台風ではないが強い風が吹く日であった。ふと見ると、その枝は元から折れて垂れ下がっていて、吹く風にあおられてぶらぶらと揺れている。

 そのまま年を越したが、枯れ落ちることもなく、風に揺れながらも翌年、若葉をつけた。このことを奥さんに話すと「あの枝には、まだ道管がつながっているのね」と生物用語を使って解説してくれる。

 それからまた1年が経った今年のことである。風が強い日には小枝は真下にぶら下がったまま揺れていたが、小さなつぼみをつけているのに気がついていた。果たして花は咲くのだろうかと思いながら毎日観察していた。

 ところが、試練にめげずこの春、折れた枝の先に見事、紅い花を1輪咲かせたではないか。驚くやら愛おしいやらで、拍手喝さいをする。揺れる小枝を見て、何度も剪定しようと思ったが、残してやってよかった。改めてハナミズキの強い生命力を感じながら、我が身もあやかりたいと思うことしきりである。


ニセアカシア

2021年03月06日 | 季節・自然・植物

 裏山の散歩道の2合目に、ミモザの木が1本ぽつんと立っていて、数日前からポンポンのような小さく丸い黄色の花が咲き始めている。4合目にある林には、背の高いアカシアの木が10本ばかり群生している。5月になれば、藤のように房状の白い小花を沢山咲かせる。

 アカシアと言えば、中国の大連で生まれた私にとっては忘れることのできない花である。街路樹には、どこにもアカシアが植えられていたことを覚えている。引き揚げた後も母から「アカシアの花房は、よく天ぷらにして食べていた」と何度も聞かされていた。

 ところが十数年前、私が知っているアカシアは本来のアカシアではなく、マメ科ハリエンジュ属の「ニセアカシア」といい、和名は「ハリエンジュ」というものであることを知った。

 明治期に日本に輸入された当初は、このニセアカシアをアカシアと呼んでいた。後に本来のアカシアの仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになったという。

 では、本来のアカシアとは一体どんな花なのか。本来のアカシアの花とは、放射相称の形状で黄色をした「ミモザ」のことだという。

ミモザとは、フサアカシアなどのマメ科アカシア属の植物の俗称。昔、イギリスで南フランスから輸入されるフサアカシアの切花を「mimosa」と呼んだことから誤用された。日本で使われている「ミモザ」という言葉は、「アカシアの仲間の花」を総称した言葉である。

 本当のアカシアは「ミモザ」のことで、長い間アカシアだと信じ込んでいたものが「ニセアカシア」だったとは。あたかも育ての親を生みの親だと信じていたのに、長じて、そうではなかったことを知った時の感情にも似た思いであったが、これはこれですっきりとした。

 ミモザの花は鮮やかな黄色い花。ポンポンのような小さく丸い花が集まって咲く。3月8日はイタリアでは「ミモザの日」となっていて女性に感謝を伝える記念日だという。ミモザの花言葉は、ずばり「感謝」。

 それにしてもニセ呼ばわりされている「ニセアカシア」の立場はどうなるのか。大連の街路樹や若いころから歌ってきた「アカシアの雨がやむとき」「赤いハンカチ」、白秋の「この道」など数々の歌にある「アカシア」は、全て「ニセアカシア」を歌ったものだというではないか。「ニセ」と名が付けられてはいるが「ニセアカシア」は、私の心の中ではやっぱり正調な「アカシア」である。
   (写真は「ミモザ」)

 

 


五橋を渡る

2021年02月08日 | 季節・自然・植物

 2月に入って第1日曜日の7日、日中は16度という3月上旬の陽気に誘われて、久しぶりに錦帯橋へ出かけた。吉香公園の中をゆっくりと車に乗って回ってみるが、どの駐車場も満車状態で止めるところはない。

 錦帯橋の上河原にある広い駐車場もほぼ満車の有り様。少し待って、やっと空いた所に止めることが出来た。下河原の駐車場を見ると、乗用車は日ごろになく多いが、観光バスは1台も止まっていない。コロナ下で不要不急の外出がはばかれ、不本意にも巣ごもり状態を強いられている人が、家族単位で観光に来ているだけであろう。団体客は全くいないようである。

 久しぶりに錦帯橋を渡ってみる。岩国市に住む高齢者に配られている敬老優待券を示せば無料で渡ることが出来る。欄干が思いの外、痛みが進んでいることに気がついた。思えば「平成の架け替え」があったのが、2001年(平成13年)~2004年(平成16年)である。あれからもう16年、過ぎ行く時の速さに少し驚く。

 第2、3、4橋に敷設されている段差の低い階段を1段ずつゆっくりと上り下る。初めて段数を数えてみた。上りと下りで62段、3橋で合計186段ある。5橋の長さは橋面に沿って210mあるので往復して420m。  

 高校時代の3年間、毎日この橋を渡って通学した。特に雪が降って橋の上に積もった日の思い出は強烈である。誰もが一度は滑って転げて笑われたが、笑った者もそのうち転げる。そんなことを思い出して一人密かに笑む。

 車に戻ったときには、陽気のせいもあってか体がポカポカする。今日は夕方の散歩はお休みとしよう。困ったときの錦帯橋。先の見えない長い巣ごもりで鬱積していたものが大分晴れたような気がした。


冬のリヴィエラ(海岸)

2021年01月14日 | 季節・自然・植物

 昨年末から厳しい寒波が襲来し、外に掛けている温度計はマイナス4度を指す日もあった。2年ぶりに雪が積もるなど、部屋の中に居ても震えるような日が続いていた。ところが今日(14日)は一変し、気温はまさにうなぎ上りして、昼には15度と3月の下旬並みの暖かさとなった。

 ここしばらくは、夕方の散歩以外コロナもあって、家から出歩くことはなく、じっとしていたが、春の陽気とあれば出て行くしかない。奥さんを誘って車に乗り、いつものところを目指して出発した。

 通津の海に面した高台に瀟洒な住宅が並んでいるところがある。その下に広がるリヴィエラに向かった。車を止めて坂道を下ると、誰もいない静かな浜辺がある。繰り返す波の音以外は何も聞こえない。突然轟音がとどろく上空を見ると、2機のジェット機が基地に向かって低く飛んで行く。

 遠くの島々は冬というのに妙に霞んで見える。この時期、春霞かと思ったが、どうやら黄砂だったようである。パソコン相手の毎日を外れ、久しぶりに遠くの水平線を見るというのは目に優しい。

 ふと近くの岸を見ると、日の当たる見るからに暖かそうな砂浜にはカモの一群がたむろしている。家に帰って、暦を確認してみた。1週間後には24節気の「大寒」で、「寒さが最も厳しくなるころ」である。

 それにしても暦が当てにならないくらい寒暖の差が激しすぎる。コロナ禍で揺れに揺れる政治のように、季節も大きく揺らいでいる。森進一が歌った「冬のリヴィエラ」の一節をハミングしながら引き返した。この冬は引き続き、巣ごもりするしかないようである。

 


雪雪雪また雪よ

2021年01月08日 | 季節・自然・植物

 昨日(7日)、いつものようにエアコンをつけているにもかかわらず、足が冷たい。厚手の靴下を履いてみたが、冷え込みが厳しく寒い。昼近くになったとき、部屋の中が薄暗くなった。木の枝が激しく揺れ始めたと思ったら、急に横殴りに吹雪のような雪が降り始めた。屋外に掲げている温度計を見に出てみると、マイナス1度を指している。

 寒いはずだ。裏山を見上げると、細かな雪で空間が遮断され、まるで横山大観の水墨画を見ているように見える。雪と言えば、新沼謙治の「津軽恋女」という歌の中で、津軽には7種類の雪があると歌っている。

 ♪ 津軽の海よ竜飛岬は吹雪に凍えるよ
     (中略)
   降りつもる雪 雪 雪また雪よ
   津軽には七つの雪が降るとか
   こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
   みず雪 かた雪 春待つ氷雪 ♪

 この他にどんな雪があるのかを調べてみた。降る時期、降る雪の状態、積もった状態に分けて7種類と言わず、多くの呼び方があることを知った。

 降る時期によっては、
初雪、早雪、終雪、名残雪、残雪、根雪、万年雪。降る雪の状態によっては、細雪、粉雪、灰雪、淡雪、牡丹雪、べた雪、風花、根周り雪などがある。

 明けて今朝のことである。まだ2階のベッドでぐずぐずしているとき「おとうさ~ん、雪が積もっているわよ」と下から奥さんが叫ぶ声が聞こえてくる。やおら起き上がってカーテンを開けて外を見た。

 2cmくらいの積雪ではあるが、一面が雪景色。まさにすべてを覆う銀世界である。急いで着替えるや、カメラを持って外に出た。風のない中、辺りの音を吸収しているかのように雪は静かに降っている。温度計を見るとマイナス4度を示していた。

 降っている雪は水分の少ない「粉雪」であった。午後の気温も氷点下だという。まだ雪が降り積りそうである。久しぶりに子供の頃に体験した厳しい寒さを、部屋の中で熱燗でもやりながら楽しんでみたい、飲めないくせに。