写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

柿すだれ

2017年10月31日 | 季節・自然・植物

 

 「昨日また かくてありけり 今日もまた かくてありなむ」と詠みたいほど、今日はまた気持ちよく暖かい日であった。久しぶりに周防大島にドライブに出かけた。大島大橋を渡り、東和町にある道の駅まで走った。大島に入ると、道端の店も、道の駅でも真っ盛りを迎えたミカンがたくさん並べられている。

 中くらいの大きさのものを一袋買った奥さんが、なかなか店から出てこない。やっと出てきたとき、渋柿も2袋手に持ってうれしそうな顔をしている。「早く家に帰って、干し柿を作りましょう。お父さん手伝ってよ」干し柿が大好きな奥さんは上機嫌である。

 3時半に家に帰った。すかさず奥さんは包丁と紙ヒモを裏庭に持ち出して「さあ、お願いします」と言いながら、柿が入った袋をテーブルの上に置いた。大小ざっと30個ばかりの柿が元気よく転がり出た。

 皮をむくのが私の役割。それを紙ヒモに結んでいくのが奥さんの役割。いつものように言わず語らず分業による協業が始まった。会話はなく無言で作業が進んでいく。熟しかけたものもあったが、全部皮をむいて紙ヒモに結び終えるまで約30分かかった。
 
 さてどこに吊るしたらよかろうか。東屋の南向きの軒下に4連をつるしてみた。わずか4連とはいいながら、秋の季語にふさわしい「柿すだれ」の完成である。田舎の農家で見られるような、無数の吊るし柿が、すだれのように並んでいる景色には程遠いが、わがやのものも一応「柿すだれ」には違いない。

 そこで一句、「ひとしきり 剥いて吊るせば 柿すだれ」;茅野友
 もう一句、「洗髪し 風呂から出れば 髪すだれ」;茅野 友

 


秋の園遊会

2017年10月30日 | 食事・食べ物・飲み物

 台風一過、朝から穏やかな日が差す久しぶりの秋晴れだった日、秋の園遊会に出席した。いや、出席ではなく開催した。「なになに、園遊会??」という方のために、ちょこっと補足説明を。

 「園遊会」といえば、天皇・皇后が主催する野外での社交会をいうが、私が言う園遊会の「園」とは「庭園」の園ではなく、「菜園」の「園」のことで、文字通り裏庭の菜園の一隅で、芋を焼きながら園遊会を開催したということである。

 時あたかも日本全国あちこちで収穫祭が開催されている中、知人から「趣味でやっている菜園でサツマイモが沢山収穫できたので、お宅にあるロケットストーブで焼き芋をしませんか」という提案を受けていた。「是非やりましょう」と言っておいたが、名前が「焼き芋会」ではなんだか貧乏たらしい。密かに「秋の園遊会」と命名しておいた。

 5人が集まり、午後1時にストーブに火を入れた。前日、裏山に上り、道に落ちている細い焚き付け用の枯れ枝を一抱え持って帰っている。薪はナタで細く割っておいた。新聞紙に火をつけ、小木を投げ込み、すかさず薪を入れて安定して燃え始めると、ダッチオーブンを乗せる。

 その中に、アルミホイルで巻いた金時芋、安納芋など5種類の芋を入れると、30分後にはいい匂いがし始め焼きあがったことが分かる。細いゴボウのようなものから太いものまでいろいろある。割ってみると、濃い黄色や、紫色、赤みがかったものなど多彩だが、口に入れると何れ劣らず甘くほくほくしておいしい。

 我が家で出来たサツマイモを入れて奥さんが作ってくれていた豚汁を飲みながらの、芋だらけの園遊会であった。ロケットストーブにダッチオーブンを乗せて作った焼き芋がメインディッシュの園遊会、希望者がおられましたら、いつでもこの機材と場所を提供いたします。ただし、焼きあがった芋を2個ほどいただきますよ。この季節、焼き芋って、本当にイーモンですね。


随処作主

2017年10月27日 | スポーツ・山登り・釣り・遊び

 昨日(26日)、2017年のプロ野球の新人選手選択(ドラフト)会議が行われ、社会人・大学・高校で活躍している名だたる選手は、各球団から待望の指名を受け、夢にまで見たであろうプロ野球選手への第1歩を踏み出した。

 競合の末、抽選で交渉権を獲得した球団が決定した瞬間、学校や職場で今や遅しと待っていたいずれの選手も、破顔一笑、待ってましたとばかりに喜んでいたのが大変印象に残っている。

 昔の話になるが、逆指名制というものがあった。選手の側から「○○球団に入りたい」ということが許されていた。これは高額な契約金にものを言わせていい選手を獲得するということであったが、後にこの制度は改正されて、現在のように抽選で決まる制度に変わった。

 この制度になったころ、意中の球団から指名されなかった選手で、1年間海外で浪人した翌年、その球団に何とか入団するようなこともあった。時は移り、プロ野球の環境は大きく変化し、毎年どの球団が優勝するのかわからなくなってきた。

 そうなると、ドラフトに掛けられる選手も、どこの球団に入ろうが、自分が頑張れば優勝するような球団になるかもしれないと思い始めるのだろう。昨日見た指名されたどの選手も一様に「指名されたらどこの球団でもいいです。頑張って貢献できるように頑張りたい」というような発言ばかりであった。

 選手は「一般社団法人日本野球機構」という組織(会社)に就職するのであるから、各球団は配属される職場と思えばよい。どこの球団に行こうが野球をすることに変わりはない。

 臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して諭した「随処作主」という言葉がある。「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」の一句である。いつどこへ行っても主になって、主体性を失うな、主人公になれ。そうすればその人の行動には間違いはない、ということである。私はこの言葉を、ドラフト指名を受けた選手に贈りたい。

 そういう私といえば、「世帯主」「ジ主」以外、主となった覚えは、サラサラない。 


焼き方指南

2017年10月26日 | 生活・ニュース

 数日前のことである。朝から昼過ぎまで奥さんと2人で、菜園を耕したり、畝を作ったり、苗の植え込みをしたりで大変疲れた。「今日のお昼は何か食べに行きましょうよ」と、奥さんは昼飯を作る元気はなさそうである。

 久しぶりに近くにあるお好み焼き屋さんに行ってみた。テーブル席は1席を残して他はすべてお客でいっぱいであった。狭い通路を隔てた隣席には、65歳くらいの身なりもきちんとした、しっかりした風の女性が2人向き合って、すでにお好み焼きを半分くらい食べている。

 我々が注文した広島風のお好み焼きの具材が運ばれてきた。溶いた粉、豚肉とエビとイカなどが乗った刻んだキャベツ、生玉子、生そばがセットになっている。店員は「お待たせいたしました」と言うと踵を返して戻っていった。さあ、自分で焼かなければいけない。

 「何から始めたらいいんだったかねえ」。以前もこの店で焼いたことはあったがもう忘れている。とそのとき「まず溶いた粉を薄く焼きます。乗っている具材は鉄板の上で直接焼くのがいいですよ」と言いながら、隣席の女性が立ち上がって来て指南してくれる。「すみませんねえ」と言いながら指示に従って焼いていく。

 しばらくすると「そろそろひっくり返すころですよ」の掛け声に合わせて、大きなヘラ2本を使ってひっくり返すが、見事にばらばらに散らばった。

 「うまくいきませんね」と、みんなで笑いながらも広島焼きは一応焼き終わり、タレと青ノリをかけると食べられる状態にはなった。「見かけはどうでも、タレをかければおいしく食べられますからね」と慰められながらおいしく食べた。

 「久しぶりに差し向かいでゆっくりと夫婦の会話を楽しみたいと思ったのですが、なんとも忙しないお昼になりました」というと「お話は家でゆっくりなさって下さい」とからかわれる。広島から用事で来たという熟女2人が、見るに見かねて指南してくれたが、およそ広島風とは言えない状態に出来上がったものの、結構おいしいお好み焼きであった。


植木の伐採

2017年10月25日 | 季節・自然・植物

 15年くらい前、裏庭の北西の角にゴールドクレストの幼木を1本植えておいた。肥料など何も施すこともないのに、年々素直に大きく育っていった。今では、幹の大きさは十数センチ、背丈は3mほどにもなり、茂った枝の三分の一は、西側にある柵を超えて隣家の畑にはみ出している。

 以前から気になっていたが、これではいけないと思い、切り倒すことにした。電動ノコを持ち出してどうしたものかと作戦を考える。離れたところから睨んでみると、木は心持ち隣の敷地の方に傾いている。やみくもに切っていくとメッシュフェンスを超えて隣の畑にどさっと倒れる恐れがある。

 何が何でも我が家の敷地に倒さなければいけない。とは言っても、我が家の敷地の木の近くには、奥さんが丹精込めて育てている大きなバラの木が2本ある。倒す木はちょうどこの2本のバラの木の間に倒さなければいけないが、結構重そうなので、そう簡単に思い通りに倒れてくれるか不安は募る。

 まずは、太いロープを木の上部に括り付けて、十分に離れたところにいる奥さんにそのロープの端を持たせた。電動ノコで倒す方向に「受け口」と称する切り口を直径の1/3くらいまでエッジ状になるように切り落とす。
 
 次は、「追い口」と称する切込みを、受け口の反対側から切り込んでいく。受け口近くまで切り込んでいくのに合わせて、奥さんが全体重を預けてロープを引くや、十数センチある「大木」は、ものの見事に思った通りの方角に、もんどりうって倒れ込んでくれた。

 私にとってはまさに大木である。テレビなどでよく見る木こりの技そのもので伐採した。木は、ちゃんとうまく誘導してやれば、思うように倒れてくれる。若かりし頃、ちゃんと誘導したつもりでも思うようにならなかった、あんなこと、こんなことが脳裏に蘇えってきた秋の夕暮れであった。