写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

ずっと好きでした

2013年05月22日 | 季節・自然・植物

 朝、新聞を読んでいるとき、奥さんが何やら菜園で採ってきたものをテーブルの上にどさりと置いた。緑色をした図体で小さな無数の気泡を散りばめたような模様をしている。直径は7,8cmもあり、巨大なナメクジのように見える。もうひとつは、明るいまっ黄色をしていて、ちょっと見たところではバナナかと見まがうほどで、曲がり具合といい、大きさといいバナナそっくりである。

 菜園に植えていたズッキーニの初めての収穫であった。長い茎の先に大きな葉をつけ、寝転がって駄々をこねている子供のように、太い茎を四方八方に伸ばしている。その真中に花をつけていたものがこの時季果実となって収穫できた。黄色と緑の2種類が育っている。

 ズッキーニといえばキュウリのようにも見えるが、カボチャの仲間だという。メキシコの巨大カボチャが祖先種であると考えられているが、1950年代からイギリスで料理として普及し始めた。今ではフランス料理やイタリア料理の食材として知られている。油との相性が良く、薄くスライスして鉄板焼きやフライなどで食べると種もなくおいしい。
 
 「今年はバラの手入れが忙しくて、受粉をしてやらなかったのに実がなったわ」と奥さんが不思議そうな顔をする。ズッキーニは雌雄異花のため、受粉には昆虫や人の花粉媒介を必要とするそうだ。「そういえば、ハチやチョウがよく飛んできていたので、受粉してくれたのかしら」といいながら納得顔だ。

 それにしてもズッキーニの栽培には広い面積がいる。成長した茎は人が横たわったくらいの長さにもなる。その上、茎や葉にトゲがあり収穫などの作業には長袖と手袋が必要なくらいである。庭を眺めていると、うちの奥さんの性向が少し読めてきた。バラが大好き、ズッキーニが好き。いずれもトゲの持ち主である。「モッコウバラは好きではない」といっていた。そうか、あのバラにはトゲがない。

 何かといえばトゲのある言い方をする私に対抗するために、さては奥さん秘策を練ったのかもしれない。「目には目を、トゲにはトゲを」か。時にはズッキーニが好きな奥さんに「あなたをズット スキデシタ」くらい言ってみるか。今日のダジャレは大変クルシイ……。


イングリッシュローズ

2013年05月20日 | 季節・自然・植物

 朝早く、まだ寝ているのに庭の方から何やら大きな話し声が聞こえてくる。奥さんが朝の散歩中の誰かとバラ談義をしている。庭に植えている数十株のバラが今最盛期である。1年間、丹精込めて咲かせた花を、奥さんは朝早くから夕方遅くまで、愛しそうに手入れをしている。

 私はというと、それぞれの花の名前はまったく知らないし、育て方も知らない。一方奥さんは、横文字の名前を全部知っているし、時期に応じた肥料や消毒のこともよく知っているばかりか接ぎ木までやってのけ、その成功率は高いようだ。

 そうはいいながら薬の散布は苦手で、身体に悪い汚れ仕事はいつも私に回ってくる。千分の一に薄めた薬液の散布は遠くに立っていろいろと細かな指示を飛ばしてくる。そのほか、ツルバラを登らせるアーチやオベリスクを作る木工の仕事は私の分担となっている。

 植えてあるバラはすべて「イングリッシュローズ」だという。一体バラの分類はどんなものなのか調べてみた。バラは「オールドローズ」「モダンローズ」「イングリッシュローズ」の3種類に分けられるが、正確には「オールドローズ」「モダンローズ」の2種類で、この両者の特徴を併せ持ったものが「イングリッシュローズ」である。

 オールドローズからはクラシカルな花の形と華やかな香り、モダンローズからは鮮やかで多彩な色を受け継いでいる。育て方の面においてもオールドローズの育てやすさ、モダンローズの四季咲き性をも持っている。イングリッシュローズはまさに、いいとこ取りの1970年代からのバラだと書いてある。

 1969年にイギリスの薔薇育苗家デビッド・オースチンがイングリッシュローズを生み出し、現在まで200種以上もの品種を世に送りだした。イギリスでは、美しい貴婦人のことをイングリッシュローズというそうだ。

 満開の「アブラハム・ダービー」には多くのファンがいる。色はピンクっぽい黄色で、フルーティーで濃厚な香りがする。恥じらいながら少しうつむき加減に咲くところが何ともいえずかわいらしい。最近、お互いに恥じらいながらうつむくようなことのない毎日、これでいいのかと思いながら朝な夕な眺めている。


アカシアの大連

2013年05月16日 | 生活・ニュース

 2004年6月、新聞に初めて投稿した短いエッセイを掲載してもらった。「アカシアの花」と題したものであった。

 
5月の末、妻と姉夫婦と念願だった満州・大連旅行に出かけた。凍てつく寒い朝、この地で私は生まれたと、母からよく聞かされていた。終戦直後、着の身着のままで引き揚げて来たという。まだ幼かった私には、明確な思い出は殆どない。唯一、家の前のアカシヤ並木を微かに覚えているだけである。
 その大連に60年ぶりの、言ってみれば里帰りをした。住んでいた場所をやっと探し当てた。そこには、あのアカシヤ並木は見当たらなかったが、街路の数本の木の枝には、母も見た遠い思い出の白い房が、たわわにぶら下がっていた。」
(2004.6.30毎日新聞「はがき随筆」掲載)
 
 あれから9年が経った今日、裏山に上ってみた。以前から背の高いアカシアの大きな木が数十本群生している場所があることに気が付いていたが、花が咲いているのを今まで見たことはなかった。大連で見たあのアカシアと同じ花なのか、一度じっくりと眺めてみたいと思っていた。

 15分も上ると、今を盛りにアカシアの花の房が手の届かない高い枝先に、たわわにぶら下がっているのが目に入った。樹高はいずれも20m以上もあり圧巻だ。背の低い1本の小枝の房を観察してみると、大連のものとまったく同じであった。

 本来のアカシアは黄色いミモザのことをいうが、一般にいうアカシアとは白い房をつけるニセアカシアのことをいいい、大連の並木に植えてあるものもニセアカシアである。幼いころ、母はこのアカシアの花の房をてんぷらにして食べさせてくれたが、引き揚げて以来一度も食べることはなかった。
唯一、アカシアに因んだ食べ物といえば、花からとれる上質なハチミツを買ってくるくらいである。

 
 アカシアといえば、西田佐知子のヒット曲「アカシアの雨がやむとき」、石原裕次郎のヒット曲「赤いハンカチ」や北原白秋の「この道」などの歌を思い出すが、この"アカシアの白い花"は全てニセアカシアのことのようだ。

 9年前の5月の中旬、大連でアカシア祭りが開催されている時に訪れた。そんなことを思い出しながら小さな一枝を手折って家に持ち帰ると、奥さんがガラスの花瓶に挿して窓辺に飾ってくれた。香り高いとはいえない特長ある生っぽい匂いが漂ってきた。これが私の生まれ故郷の匂いである。


烙 印

2013年05月09日 | 生活・ニュース

 他人のちょっとした失敗や欠点を見たようなとき、「あいつは○○なやつだ」と周囲の者が決めつけることが時にある。そんなことが度重なってくると、いつの間にか「あいつはこういうやつなんだ」と烙印を押される。

 烙印は英語ではBRANDと書き、品質・等級・製造元・所有者などを示すための焼き印のことでもある。「ブランド商品」という表現の語源にもなっている。しかし、烙印といえば、過去には刑罰としておこなわれ、一生涯にわたって払しょくされない汚名を受けることを意味している。

 焼き印はそんなおぞましい使い方だけではなく、近頃ではいろいろな使い方を目にすることが多い。宗教登山が盛んな富士山や御嶽山では、宗教登山に使用される木製の金剛杖に焼印を有料で押印するサービスが山小屋ごとに行われている。また、蒲鉾や饅頭などの食品に文字や模様を入れるためにも多用されている。木製品には管理用の文字や模様を入れるための焼き印も多い。

 この連休中、錦帯橋祭りが催され、上河原では毎年恒例のフリーマーケットがあり出かけてみた。数年前には、2,000円出して古い柱時計を買って帰った。分解掃除をして油をさすと動き始め、振り子の長さを何度かネジで調整すると誤差も少なくなり、今でも心地よい音を書斎に響かせてくれている。

 そんな昔懐かしいものがあればと思って見て回っていると、直径が3cm弱の小さな丸い焼き印を200個ほど並べている店の前に出た。どこかの店の商標のようなものや漢字が一文字彫ってあるものが入り乱れて置いてある。私の名前の1文字でもないかと探していたら、「友」という字を見つけた。段ボールをちぎった紙に「1個500円」と表示してある。「これ下さい。少しまけてよ」と言うと「これがいっぱいの値段じゃから」と女店主はつれない。

 言い値で買わされたものを持ち帰りガスレンジで焼き、昔作った木工のキッチン用品に押し当ててみた。シュウーと白い煙を上げて木が焼ける。離してみるとキツネ色した「友」の文字がくっきりと現れ、DIYの木工品が木曽の高級工芸品に見えたのは目の錯覚か。DIYの品が「手作りの安物木工品」との烙印から逃れた瞬間であった。顔の額に押すわけにはいかないし、他の使い道に目下苦慮している。


お墨付き

2013年05月08日 | 生活・ニュース

 月に一度、高脂血症の薬を出してもらうために、かかりつけの病院へ行っている。2か月に一度は採血をしてコレステロールの値をチェックしてくれる。最近は先生との人間関係が出来て、先生の方から少し話しかけてもらえるようになっている。

 昨年の夏ごろ、それまで飲んでいた薬から新しい薬に替えてくれたが、その効果があったといおうか、それとも私の生活習慣が改善されたからだろうか、コレステロールの値が20年ぶりに標準値に入るようになった。毎日ではないが週に4、5回は3kmの早足での散歩をやっている。その成果だと信じたい。

 「じゃあ、また1カ月分の薬を出しておきましょう」「おねがいします」。先生は血液検査の結果を見ながら「茅野さんは腎臓の機能がいいので長生きしますよ」と言う。「えっ、どの項目でそれが分かるのですか?」と聞くと、「UA」と「CRE」と書かれた2つの項目を指差した。「これで腎臓の機能がいいかどうかが分かります」と教えてくれた。

 家に帰ってネットで調べてみた。「UA」とは尿酸のことで、
細胞が壊れたりして生じる老廃物である。冠状動脈硬化症(狭心症・心筋梗塞)との関連が高いことが明らかになり、生活習慣病の目安のひとつに加えられることが多くなった。「CRE」とは、クレアチニンのことで、たんぱく代謝の産物としてでき、腎臓でろ過され、尿として排泄される。腎機能をみる指標となる。 

 先生が言った「腎臓の機能がいいので、長生きしますよ」という言葉を反芻してみた。血液検査では、この2項目以外にも肝臓やすい臓など他の臓器の異常を確認するための検査項目は沢山ある。それなのに、腎機能の検査結果が良かったことだけを取り上げて「長生きしますよ」とは、先生は一体何を言わんとしたのだろうか。

 医者が患者に対していう言葉や態度は、患者にいろいろ考えさせることが多い。検査結果を見ながら、ちょっと首をかしげただけで「大丈夫なのかな」とか思ったり、「長生きしますよ」と言われても「その場しのぎの慰めの言葉ではないのか」と思ったり、私はどうも素直に聞くことが出来ない。今日の言葉は素直にうれしくありがたく聞いておきたいと思うが、果たして腎臓のシンソウはいかに……。