写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

悪いやつ

2007年10月31日 | 生活・ニュース
 昨日(29日)、防衛省の守屋前事務次官の衆議院での証人喚問をテレビの実況放送でじっくりと見た。

 すでに報じられているように、防衛専門の特定商社との目に余る癒着振りが次々と自らの口から証言された。10数年も前から偽名を使って200回以上にも及ぶ接待ゴルフ三昧、賭けマージャン、プレゼント攻勢などなど。

 それらを何ら悪びれた様子もなく認めている。テレビを見ながら、私は開いた口がふさがらない。そんな実況放送の中で、唯一大きな拍手を送りたくなるような質問者がいた。社民党の照屋議員である。

 質問に立っての第一声は「証人の顔色がすぐれませんが、夜はよく眠れていますか?」と訊く。「眠れない時もありますが、昨夜は、今日のためによく眠りました」「それは良かった。『悪いやつほどよく眠る』と言いますから」と皮肉る。
 
 出席議員が大笑いするのに釣られて、守屋証人も苦笑いしている。国会議員の中にも、面白い男がいる。

 防衛省の天皇といわれていた男が、単なる倫理法違反に留まらず、あるいはもっと大きな政界疑惑の渦中の男になる日も近いのかもしれない。

 その日の夕方の散歩の道すがら、刈り取られた田んぼのあとに、もう1度稲が生えて稲穂が頭を垂らしているのを見た。 

 2度目の稲穂ともなると、それほどの頭の重さはない様に見えるが、それでもしっかりと頭を垂らしている。

 軽いがゆえに垂れにくい頭の私であるが、守屋証人は見るからに大きくて重そうな頭だ。勘違いなどせずに、しっかりと頭を垂らして生きて欲しい。
  (写真は、証人喚問で答弁する「悪いやつ」)

メトロノーム

2007年10月30日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画
 日曜日の夕方、自宅でピアノを教えている姪が大きな紙袋を抱えてやって来た。中には2台のメトロノームが入っている。

 メトロノームとは、一定の間隔で音を刻み、ピアノやバイオリンなど楽器を練習する際に、テンポを合わせるために使うあの音楽用具だ。 

 こんなものは小学生の頃、音楽教室で見て以来とんと縁のないものであった。その内の1台はネジを巻いても動かない。もう1台は、動くけれど拍子を打つチンという鐘がならない。

 私の「神の手」で何とかならないかという修理依頼であった。最近は、精度が良く壊れにくい電子式のものが多くなっているようだが、預かったものは機械式である。

 壊れてもいいというお墨付きをもらい分解してみた。中には、ゼンマイ・錘・小さな穴の開いた歯車・板バネなどが組み込まれている。

 ある拍子毎に鐘を打つ仕掛けとして板ばねが付いているが、このバネの強さの調節がうまくいっていないと、メトロノームが動かないようになっているし鐘も鳴らないことが分かった。

 機械的に壊れているのではなく、長年使ってきて、ある部分が磨耗したため、バネの強さを調整しなければいけない状況になっている。

 それをやって油を差すと、2台ともカチカチと小気味よい音を出しながらくリズムを打つようになった。2時間かけて蘇生完了である。

 新しく買っても1台が3000円くらいのものであるが、うまく蘇ってくれた。ネジを巻いて私の手首の脈をメトロノームで取ってみた。錘の位置がちょうど72の拍子の「ANDANTE」と書いてあるところであった。

 ANDANTEとはイタリア語で「歩くくらいの速さのこと」という。私の今の生活スピードと同じ速さだ。

 カッチカッチとANDANTEで振れているメトロノームから「アンタッテ、器用な人ね~」と繰り返し言われているように感じた。
  (写真は、神の手で蘇った「メトロノーム」)

生パスタ

2007年10月29日 | 食事・食べ物・飲み物
 日曜日の午後、妻の弟夫婦がイチゴの苗を80本持って遠路やって来た。妻は毎年苗をもらってイチゴ作りをやっている。強い日差しの中、弟に手伝ってもらいながら二人で全部を植えていた。

 4時を過ぎて作業が終り、汗を拭きながら部屋に戻ってきた。何もしなかった私は、手作りのパスタを作ってご馳走することを提案してみた。

 弟夫婦は喜んで賛成した。そうと決まれば行動は速い。妻が台所の奥にしまってあるイタリア・アンピア製のパスタマシンを出した。

 私は、強力粉に薄力粉を混ぜて5人分500グラムをボウルに入れ、卵を5個、オリーブオイルと塩を少々入れて10分くらいよく練った。

 しっとりとパン生地のようになってきたら冷蔵庫で30分寝かせる。あとは、いよいよパスタマシンの出番である。

 マシンの伸しローラーにかけて2㎜に圧延する。出来たものを今度はカッターローラーにかけて細い麺にしていく。

 子供の頃にやった粘土遊びのような感覚で楽しみながら生パスタを作っていく。ここまでが私の仕事だ。

 出来た麺を沸騰しているたっぷりの湯で2分間茹で、アーリオオーリオにする仕事は義妹の仕事である。

 製麺作業のテーブルの上に散らかった粉を拭き終わったとき、もう大皿に盛った彩のいいパスタが並び始めた。

 少し時間は早いがパスタの夕食となった。噛んでみると腰のある麺だ。10分間、全体重をかけて練ったことが効いている。

 「店で食べるものよりも、ソースがよく絡んでおいしいね」。そんなことを言いながら食べた。

 時には皆で手間隙かかることをやってみるのも楽しい。久し振りにパスタマシンが活躍するスローな秋の午後が過ぎていった。
(写真は、活躍した「パスタマシン」と出来上がった「生パスタ」)

捨てられないもの

2007年10月26日 | 生活・ニュース
 なかなか捨てられないというものがある。古い写真・古い年賀状など思い出に関連したものが多い。

 記憶を形に残しておきたい心理からだと思う。普段は決して見ないものばかりであるが、捨てるとなるとなかなか決心がつかない。

 文庫本も、その一つだ。昭和30年代、1時間に1本走る汽車に乗って通学していた。かばんの中には、いつも安くて小さな文庫本を入れていた。それらは今なお私の書棚にびっしりと並べて置いている。

 セロハンのように薄くすき通った紙のカバーが掛けられているが、朽ちて破れているものが多い。ことあるごとに妻からは「この汚い本は、もう捨てましょう」と言われる。

 確かに見栄えは悪く、場所は取り、ほこりっぽくもある。しかも最近は取り出して読むこともあまりない。しかし、いつまで経っても捨ててしまう決心は、なかなかつかない。どの本にも私の青春時代の思い出が閉じ込められているからだ。

 先日、久しぶりにその書棚の前に立ち、古い文庫本を開いてみた。ところどころに赤インキで線が引いてある。そこを立ち読みしていると、ふと青いレモンの香りがしてきたように感じた。
  (写真は、赤い線を引いてある「文庫本」)
   (2007.10.25 中国新聞「広場」掲載)

薄煙り

2007年10月25日 | 季節・自然・植物
 夕方、相棒ハートリーを連れて、お決まりのコースの散歩に出かけた。山沿いの小道を進んでいくと、先の景色が薄く煙って見える。

 農家の前の畑で、落ち葉や枯らした雑草を燃やしていて、その煙がゆっくりと上がり、山間に霞のように低くたなびいている。

 燃やしているというよりか、いぶしていると言ったほうが適切かもしれない。火は見えず煙るばかりの燃え方であった。

 その立ち上る薄煙りを見ていたとき、この季節に時折ふと口ずさむ古い歌を思い出した。

 ♪ 山の淋しい 湖に     一人来たのも 悲しい心
   胸の痛みに 耐えかねて  昨日の夢と 焚き捨てる
   古い手紙の 薄煙り ♪

 作詞者 佐藤 惣之助、1940年(S.15)高峰三枝子の歌でヒットした曲だという。2番と3番の間には台詞がはいる。
 
  「ああ、あの山の姿も湖水の水も、静かに静かに黄昏れて行く……。
  この静けさ、この寂しさを抱きしめて、私は一人旅を行く。
  誰も恨まず、皆昨日の夢と諦めて、幼子のような清らかな心を持ちたい。
  そして、そして、静かにこの美しい自然を眺めていると、ただほろほろと
  涙がこぼれてくる」

 ふた昔も前のJRの旅の広告にあった、高峰三枝子が豊満な身体を湯につけて微笑んでいた写真を思い出しながら「…うす~け~む~り~」と口ずさんでみた。

 しかし、ここは湖畔でもなんでもない。とある農家の庭先だ。つるべ落ちの秋の夕暮れに立ち上る薄煙りは、手紙を焚き捨てている訳ではなく単なる落ち葉焚きである。

 そう言えば思い出せないくらい昔、私も手紙と日記帳を燃やしたことがあったが、焚き捨てるほどの過去が何だったのか。今は幼子のような清らかな心で毎日を生きている……ということにしておこう。
 (写真は、枯れ草を燃やして立ち上る「薄煙」)