危ぶまれていた天候であったが、割と穏やかな日に恵まれて2泊3日の東京の旅を無事に終えて帰ってきた。6年ぶりの東京は、オリンピックを目前にして、大きく変貌していることにまずは驚いた。そんな外観の変貌とは無縁なところを訪れてみた。息子の家がある世田谷区・若林にある「松陰神社」である。
社はこんもりとした森の中に鎮座していて、鳥居の横に神社の説明板が建ててある。
「松陰先生は幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育した。しかし安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死した。
その4年後の1863年に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文などによって、当時長州藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬された。
1882年(明治15年)11月、松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建された」と書いてある。
松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。鳥居は木戸孝正が寄進した。若林では「萩・世田谷幕末維新祭り」を毎年町を挙げて開催しているという。
郷里を遠く離れたこんなところで、松陰が神社として祀られていることが、山口県人として嬉しく感じられた。しかも、毛利藩主の所領にである。訪れた日は、ちょうど七五三のお参りの日に当たり、着物姿の可愛い子供が手を引かれて大勢参っていた。この神社では松陰は「学問の神様」と崇められているようであった。
これもよかろう。時代は巡り今は令和。まさに明治は遠くなりにけりである。
社はこんもりとした森の中に鎮座していて、鳥居の横に神社の説明板が建ててある。
「松陰先生は幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育した。しかし安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死した。
その4年後の1863年に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文などによって、当時長州藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬された。
1882年(明治15年)11月、松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建された」と書いてある。
松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。鳥居は木戸孝正が寄進した。若林では「萩・世田谷幕末維新祭り」を毎年町を挙げて開催しているという。
郷里を遠く離れたこんなところで、松陰が神社として祀られていることが、山口県人として嬉しく感じられた。しかも、毛利藩主の所領にである。訪れた日は、ちょうど七五三のお参りの日に当たり、着物姿の可愛い子供が手を引かれて大勢参っていた。この神社では松陰は「学問の神様」と崇められているようであった。
これもよかろう。時代は巡り今は令和。まさに明治は遠くなりにけりである。