写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

74年前の冬

2015年11月27日 | 生活・ニュース

 今朝は今年一番の寒波がやってきて、ことのほか寒い朝であった。74年前の今日、私は中国の大連という町で生まれた。父が満州鉄道で働いていたので、その社宅で産湯を使ったという。終戦後に引き揚げて帰るまでの5年間をこの町で過ごした。大人になってからも誕生日を迎えるたびに何度となく母は「友ちゃんは凍るような寒い日に生まれたのよ」と言っていた。

 子どものころは、そんな寒さを感じることなく生活していたが、今思うと大変な寒さであったことがよく分かる。社宅はレンガ作りの2階建てで、窓はすべて2重窓、床下暖房のオンドルが設置されていて家の中はどこにいても暖かい。しかし一歩外に出ると厳しい寒さであったようだ。自宅から少し離れた社宅の共同風呂に行っての帰り道、ほんの数分の間で、濡れたタオルはカチカチに凍って硬い棒のようになった。鼻水でも出そうものなら容赦なく凍る。

 野菜などの保管も屋外に置いておくと冷凍食品となり、ニンジンなどは凍ったものをかじった覚えがある。部屋の2重窓から外を見ると、外側のガラスにはきれいな雪の結晶が張りついていたことも記憶に残っている。母が亡くなった後も、誕生日にはいつものことながら、そんな断片的な記憶を思いだすのが常である。

 大人になってから「あなたの出身地はどこですか」と聞かれたことが何度もあった。ついこの間までは「生まれは中国の大連というところですが、物心がついて育ったのは岩国です」と答えていた。「出身地」という言葉の意味をはっきりと理解していなかったからであった。

 法律用語である「出生地」が生まれたところであるのに対して、「出身地」の定義はあいまいで、一般的な意味合いとして「幼少期の自分の人格形成に最も影響を与えた考えられる土地」という考え方である。これに従えば、「幼少期を過ごしたところ」や「思春期までの人格形成の基礎となっているところ」「初等教育を受けたところ」などが出身地となるようである。 それであれば私の「出身地」は、ここ岩国ということになる。

 そんなことを思いながら、このブログを書いている時、買い物から帰って来た奥さんが「今日はお父さんの誕生日だから、小さかったけど天然物のうなぎがあったから買って来たわよ。それに赤ワインも」と言いながら荷物を置いた。今夜は、我が家なりの弾んだ「晩さん」が待たれる。窓からは明るい陽が差しているが、時おり強風がすっかり葉を落としたハナミズキの小枝を揺るがしている寒い誕生日である。

   古希も過ぎ 嬉しくもない 誕生日  (茅野友)


 


「四境の役」出版余話

2015年11月25日 | 四境の役

 私の全く個人的な興味から「四境の役」という冊子の電子版を作ったことが、9月に新聞2紙に記事として掲載された。これを読んだ人や施設からの依頼で、合計35回にわたってメールで送信しておいた。

 来年の6月には四境の役後150年目を迎える。それに先だって周防大島町では、今年4月に「四境の役150周年記念事業実行委員会」というものを立ち上げ、「幕府軍の圧倒的な勢力に対し少数でありながら近代的装備と西洋式戦術によって大島を守った長州藩軍や島民の戦いを顕彰し、この戦いにおける貴重な歴史的文化遺産を整備する」目的で活動を始めている。

 手始めとして、9月より来年6月まで、久賀にある「八幡生涯学習のむら」という会場で、「
当時の劣勢を民衆の力で跳ね返し、明治維新に繋げたということを再認識、再評価してもらうための事業のひとつ」として、長州軍・幕府軍の進軍図や、四境の役に縁のある大島郡内の史跡・人物・古文書などをパネルで紹介している。

 150年目を前にして、近くの町から色々な動きが聞こえてきてくる中、昨夕と今朝、2本の電話がかかって来た。1本は下松市に住む私と同年輩くらいの女性から。「新聞の切り抜きを整理していたら、四境の役の電子版の記事が出てきました。読みたいと思って切り抜いていたものですが送ってもらえますか」という。電話の直後にFAXで、メールアドレスのほか、特に要求はしなかったが住所・氏名・電話番号とお礼の文まで書いてある。直ぐにメールで冊子を送っておいた。

 今朝かかって来た2本目の電話は、岩国図書館の女性館員からであった。「新聞に出ていた四境の役の電子版を送って欲しい」という。「新聞掲載直後ではなく、何故この時期になって?」と聞くと「市民からの要望がありましたので」と答える。そういえば新聞掲載直後に、大島町と上の関町の2町の図書館から送付依頼があり送っていた。

 「岩国市の図書館はこんなことに無関心なんだな」と思っていたが、市民からの要望があってやっと動いたようである。ただひとつ不満がある。「送り先のメールアドレスを教えて下さい」というと、「図書館のホームページの右上に書いてありますからそれを見て下さい」とそっけない。およそ送ってもらう立場の対応とは思えないが、まあそんなもんだろう。女性館員の名前も聞く気にならないまま「こんなことだから、無関心でおられたのだろう」と思いながらメールで送っておいた。


密室失踪事件

2015年11月23日 | 生活・ニュース

 夏の初め、見た目くらいは涼しさを感じようと思いメダカを10匹買い求め、玄関の下駄箱の上の水槽に入れて眺めていた。水の汚れを防止するため、週に一度、水槽の水の三分の一くらいを入れ替える。些細な留意事項ではあるが、水道水のカルキを抜いておくとか、水温を水槽と同じくらいにしておかなくてはいけない。

 この作業を少し乱暴にしたような時には、体力のない小さなメダカが耐えきれなくて死んでしまうようなことがあった。そんなことが何度かあって、飼い始めて5カ月が経った現在では、僅か4匹が元気に泳いでいるほか、メダカと一緒に入れておいたミナミヌマエビという小さなエビが1匹這いまわっているだけとなっている。

 このエビは、コケ類を食べるので水槽をきれいに掃除してくれるし、水質の悪化につながるエサの食べ残しや動物の死骸も処理してくれるという店員の勧めで買って帰ったものであった。そういえばこの5カ月間で、6匹が死んでしまったが、底に沈んでいたものを取り出したのは2匹だけ。あとは気がつかない内に数が減っていた。まさにサスペンスドラマでよくある「密室失踪事件」である。いなくなったのにその亡骸が水槽のどこにも残されていない。

 人の世であれば大事件になるほどのことが、小さな水槽の中でいとも整然と起きている。いつ覗いてみても、エビは両手を動かして何かを口に運ぶ動作に余念はない。お陰で水槽は全くきれいに保たれているが、これこそ、店員が説明してくれたエビの働きのおかげに違いない。

 それにしても死んでしまったメダカの姿だけでなく、骨のかけらすら見つけることが出来ないほどきれいに始末をしてくれているとは、このエビの環境保全の能力は大したものである。しかしエビが死んでしまったときには私が始末をするしかない。精々長生きをして水槽の環境保全に貢献して欲しいという願いを込めながら、毎朝エビが元気に動いているかを温かい眼差しで見守っている。
 

 

 


秋の終わり

2015年11月19日 | 季節・自然・植物

 この秋は身辺に、ちょっとした出来事があった上、時間のとれる土日に限って天気も崩れるようなこともあって、ついぞ紅葉を楽しむようなことがないまま11月も終わろうとしている。

 つい4日前のことである。吉香公園近くに住んでいる知人に電話で話をしている時、「今、紅葉谷の紅葉がきれいですから、ぜひ行ってみてください」と勧められていた。その翌日から天気は悪く、出かけるような日はなかった。夕方やっと雨が上がったと思った日の午後4時、もう遅いと覚悟はしていたが、紅葉谷に出かけてみた。

 いつもは一杯の駐車場は、がら空きである。こんな天候、こんな時間でも、手持無沙汰の様子で交通指導員の男が立っている。車から降りて寺谷の道を城山に向かって歩き出したとき、降るともなく降る霧雨の中を1組の男女が透明なビニール傘を差して歩いているのが見えた。

 中年のカップルであったが、時に発する甲高い嬌声から判断すると、どうやら夫婦ではなさそうであるが、詮索することは止めた。2人は、わき道にある東屋の方に向かって歩いていった。ふと我に帰り、紅葉を見に来たことに気がついた。紅葉はすでに終わり、黒っぽくなった無数のモミジの葉は、濡れたアスファルトの路面に、押し花をしたかのようにぴったりと重なり合って張り付いている。

 前方を見ると、毎年多くのギンナンの実を付けるイチョウの木も、葉の半数を落としている。木の根元には、まっ黄色の葉が、まさに絨毯を敷き詰めたように広がっている。山に囲まれた薄暗い寺谷の中で、ここだけはフットライトを照らしたかのように明るく輝いて見える。不思議な光景であった。

 振り返ってみても、もう誰もやって来ない。交通指導員も自転車にまたがって帰っていくところであった。件のカップルもどこに行ったか見当たらない。モミジの名所・紅葉谷の今年の秋は、霧のような秋雨と共に静かに終わった。


覆い焼き

2015年11月17日 | 旅・スポット・行事

 日曜日(15日)、広島県の三次市にある「みよし風土記の丘」に行ってきた。この地には、豊かな自然と風土を背景に数多くの歴史遺産が残されており、歴史民俗資料館には、地域の考古・歴史・民族の資料が保存・展示してあり広く公開されている。

 このたび、資料館が主催する「弥生時代の土器作り教室」に参加している知人に誘われて行ってみた。弥生時代といえば、縄文時代に続き、古墳時代に先行する、およそ紀元前3世紀中頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代である。

 この時代の焼き物は、縄文土器
にくらべて明るく褐色で、薄くて堅いという。縄文土器が焼成時に器面を露出させた野焼きをしたのに対し、弥生土器は藁や土をかぶせる焼成法を用いた。このために焼成温度が一定に保たれて良好な焼き上がりを実現できたと思われている。

 このように、燃料となる木を敷きつめ、その上に土器を並べ、周りに燃料材を組み上げる。
これを藁や枯れ葉などで覆い、さらにその上に灰や泥などをかぶせ、まわりから火をつけて焼き上げる方法は「覆い焼き」とよばれ、弥生時代から古墳時代の野焼きの方法である。

 今回はこの「覆い焼き」を体験した。ここでのやり方はまず、平坦な地面の上に稲藁を1m四角に敷き詰める。その中ほどに薪を十数本梯子のように並べ、その上に会員があらかじめ作って乾燥させておいた土器を並べて置く。その土器をとり囲むように根元を上にして円錐状に藁を立てる。外観的には藁床の上に角度の急な小さな富士山を作ったように見える。

 その富士山の表面に壁土を塗るように、練った赤土を塗っていく。裾の方だけは高さ10cmくらい塗らずに開放しておく。それが終わるといよいよ着火である。冨士山の裾の赤土壁からはみ出している藁に四方から火をつけるが、上部は粘土で覆われているので大きな火が燃え上がることはなく、内部は酸欠状態で燃えていく。

 あとは4時間放置しておき、表面が乾いて白くなった赤土を、そろりめくると弥生土器が転がり出てきた。こんな窯もどきでも、内部温度は900度まで上がるという。弥生人の知恵を、2000年後の今、目の当たりにした。