写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

若水に願いを

2015年12月31日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 仕事を辞めて十年余りが経つ。
現役時代には気が張っていたせいか、
大きな病気などすることなく元気に過ごしてきた。

 ところがこの2年間で2度も入院手術をした。
幸運にも、いずれも大事に至ることなく
無事に退院することができた。

 健康面で色々と思い悩むことの多かった
一年に別れを告げ、新しい気持ちで元旦を迎える。

 かつては過分なことを願ったこともあった
神棚に若水を供える。
 年を重ね、なんとか病を乗り越えてきた今は違う。

 10億円の宝くじよ当たってくれなど多くは望むまい。
 
ただ元気でさえあればと。
   (2015.12.31 毎日新聞「はがき随筆」掲載)


「花水木」発刊準備

2015年12月30日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 エッセイの同好会「岩国エッセイサロン」を開設して本年末で満10年が経過した。現在会員は18名。各人がこの1年間、新聞に投稿し掲載されたエッセイの総数は94編であった。ピーク時には136遍もあったが、ここ数年は100編前後で推移している。

 毎年、年初の1月度の定例会では、新聞に掲載されたエッセイを同人誌「花水木」として、製本したものを各人に5冊ずつ渡す。同好会の事務局長兼小使いさんである私の年末の一大作業は、同人誌の原稿の編集である。

 年が明けると、年末に作り終えた原稿をUSBにコピーして印刷会社に持ち込み、1月の第3金曜日の定例会の日までに100部ほど製本してもらう。製本時、ページ構成を間違えないように、最初と最後の10ページをプリンターで印刷して綴じたものも念のために持って行く。

 昨年、120ページだったものが今年は140ページとなった。自分が書いて投稿し、新聞に掲載されたエッセイが、本の形で手元に戻って来ることを会員の皆さんは楽しみに待っている。それを思うと、年末の喧騒や、奥さんからの掃除の指示も全く耳に入らない。今日その作業の全てを無事終えて、明日の大晦日は、ゆったりと紅白歌合戦でも見ることが出来そうである。

 明日、会員の誰かが投稿した今年最後のエッセイが新聞に掲載されれば、急きょ、「花水木」に追加する事態になりかねないが、さてどんな大晦日になることやら。


読んでもらえるブログ

2015年12月29日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 このブログを始めて11年が過ぎた。日経新聞に紹介してあった「ブログ」というものに興味を持って始めたが、当時「ブログとは、個人の行動の記録や日々感じたことなどを時系列に表示する日記的なもの」と定義してあったことを覚えている。

 時は流れ、今日本でブロガーと呼ばれるブログ人口は3千万人にも及ぶという。書かれている中身はというと定義通りに、ブロガー個人の行動記録や身辺雑記など日記的なものが圧倒的に多い。日記というのであれば、それはそれで良かろう。芸能人や著名人のものであれば、私生活の覗き見的な好奇心から読んでくれる人はいるだろう。

 しかし名もない一個人が書いた日記などは、書いた本人以外、興味を持って読んでくれるような人はごく少数であろう。不特定の多くの人に読んでもらうことは至難の業だが、顔見知りの人であれば読んでくれるかもしれない書き方がある。

 まずは、行動記録や身辺雑記などの単なる日記を書かないこと。書いた人が1日何をしたかの記録など、ほとんど誰も興味は持ってくれない。ではどんなことを書けばよいのか。1.「ねえ、ねえ、聞いてよ」と、会った人に話してあげたいような、面白い話、珍しい出来事、教訓的な出来事。 2.人にぜひ紹介したい情報。食べ物やおいしいレストランなどのグルメ、観光地・史跡・自然、趣味や特技を持った人物など。 3.ある出来事や時事に関しての自分の考え方や意見・提言・考察の披歴。新聞への投稿の類。 4.自ら体験したことから気付いたことを通して、社会と通じる意味合いを持たせた話。

 中でも4番目の話が書かれていれば、筆者と全く面識のない人が読んでも、読んだ甲斐があろうということを、元毎日新聞社論説委員でありコラムニストである近藤勝重さんが「必ず書ける文章術」という著書の中で書いている。このことは「個人的体験の普遍化」というそうであるが、「普遍化」することは結構難しい。

 あることを体験すれば必ず何かを感じる。その感じたことが社会とどうかかわっているかを書いて欲しいという。たとえば、「野球の大事な場面で納得のいかないポテンヒットを打った。しかしベンチのみんなは喜んでくれている。自分が目指している高い目標のバッティングが達成できなくても、喜んでもらえた。全ての打球が理想的なきれいなヒットでなくてもいいことを知った。ポテンでも良いヒットだった。」というような書き方が「普遍化」だというが……。

 要は、読んでもらう価値があるかどうかが問われているのだが、その「価値」とは「読者にとって楽しかったり、役に立ったり参考になったりする内容であるか」という単純なことであろう。


我流の楽譜

2015年12月28日 | 生活・ニュース

 10年前、見知らぬ老人が公園のベンチに座ってハーモニカを吹いている音色を聞いて、自分も吹いてみたくなり、ドイツ製の「HOHNER」という銘柄のものを買った。吹くといっても、曲を覚えていて歌うことが出来るもので、レパートリーは主として唱歌である。

 歌謡曲には半音が入るものが多く、私のハーモニカでは音が出ないので吹くことはできない。先日、書棚を整理している時、長らくご無沙汰していたそのハーモニカが出てきた。手に取って吹いてみると、相変わらず哀愁漂うはかなげな音がする。しばらく椅子に座って何曲か吹いてみた。

 知っている歌は楽譜なんかなくても演奏することはできるが、時々「吹く」のと「吸う」のとを間違えて、変な音を出すことがある。この「吹く」「吸う」さえ間違えなければ、暗譜で曲を吹き終えることが出来る。

 ネットで「唱歌」を検索し、知っている懐かしい曲を書き出してみると「故郷」「おぼろ月夜」「埴生の宿」「冬の星座」など35曲もあった。その曲のひとつに、1音ずつ「吹く音」には0、「吸う音」には1の数字を書き込み、それを見ながら吹いてみると、途中で間違えたりすることなくうまく演奏することが出来た。

 こんな単純なことで、スムーズに吹くことが出来たことに味をしめて、35曲全部に0と1の印をつけたものを作り、私のハーモニカレパートリーの楽譜を完成させた。他人がこの楽譜を見ても理解しがたい暗号にしか見えないものでも、私にとってはハーモニカ演奏で必携の楽譜である。自分だけにしか通用しないこんな小さな工夫、暮れの大掃除にもいくつかありそうだ。「必要は発明のマザー」、どこかで聞いたことのあるフレーズになった。

 


来年の計

2015年12月27日 | 生活・ニュース

 「一年の計は元旦にありといい、物事を始めるにあたっては、最初にきちんと計画を立てるのが大切であるということは、子どものころから何度となく親や先生から聞かされてきた。

 振り返ってみる今年の元旦、目は覚めたが寝床の中で目をつむったまま「さて、今年はどんなことをして暇をつぶしていこうか」と考えてみた。元旦だからといって、おいそれと妙案は思いつかなかった。翌日からも毎晩、ベッドに入ってから同じように考えを巡らすが、いつの間にか眠ってしまう毎日が続いた。

 答えが見つからないまま、3か月が過ぎたころ、やっと取り組むべきことが見つかった。それが「四境の役」という冊子の編集であった。1年の計が決まるまで時間はかかったが、何とかそれなりのものを作ることが出来たので、まあ良い年だったといえる。

 そんな年も押し詰まり、もうすぐお正月がやって来る。今年のようなことを繰り返すわけにはいかない。元旦には、すっきりと1年の計を決めて即実行に移したいと思っている。そのためには「来年の計」を年内に考えておき、元旦には「1年の計」として実行に移したいものである。

 それならばと、1か月も前から「来年の計」を考え始めていたが、今日それを決めた。この10年間は、エッセイを書くとか、ご当地検定を実施するとか、そのテキストブックを製作・出版するとか、文系の目標を掲げてやって来た。来年は大きく方針を転換して、体育系の目標を掲げることにした。

 「週に1回、虚空菩薩堂へ登ること」とした。片道1700m、標高差が150mあり、ちょっとした山歩きである。久しぶりに登ってみたが、ひとつ「こんなことが、分かったらいいな」ということを感じた。それは、「今歩いているところが、何合目あたりなのか?」ということである。

 家に戻りインターネットで地図を出し、虚空菩薩堂までの距離を10等分して手書きの地図に印を付けてみた。これで中間点や、頂上まであとどの位かがはっきりと分かり、最後の急坂も頑張って登ることが出来るように感じた。自分の立ち位置が分かるようにしておくことは、単に山登りをするときの体力配分にだけ活用するのではなく、日々の生活の中でも大切だと思うことは多い。