最近は家庭の中で、男の存在感がなくなったという指摘をよく聞くようになった。私が子供のころの父は一家の主として、家族の皆から一目置かれる存在であったと記憶している。給料日には、おかずが一品多く、食後には母が昼間買ってきた父が好きな生菓子が出されることもあった。
午後から思いがけずに雨が降って来た日には、父の退社時間に間に合うように歩いて1時間もかかる会社の正門まで、雨傘を持って行かされたりもした。色々な場面で、母は父を大切にしていることを態度で示し続けていた。
世代が変わって我らの時代となった。明治生まれの父母のころとは変わって、新しい教育制度のもとで学び躾けられて育った。男女同権、男女平等はことのほか強調された。そして近代では、男女間の格差是正、男女雇用機会均等、男女共同参画など、男女を性差だけで差別することが厳しく糾弾されるようになった。
結果としては、男社会への女性の積極的な侵入、女社会への男の侵入と、男女入り乱れての世の中となっている。自衛官や警察官、ダンプの運転手にまで女性がなったり、看護婦さんだと思っていたのに男の看護師さんが出てきたり、夜のクラブではオネエが頑張っていたりで、職業でも男女の差はなくなりつつある。
そんな影響もあって、家庭内でも徐々に男女の共同参画の考え方が浸透し始め、男は出産こそできないまでも、出来た子どもの育メン休暇、家事の分担、外出時の子供のだっこなど、男だからといっての存在感は希薄になっている。
これが当たり前だとは頭では理解できるが、私の世代の男は、男女平等が唱え始められた端境期の人間であり、気持ちではそう思っているが身体が素直に動かない。「飯、風呂、寝る」の3語だけで威張っている訳ではないが、どちらかというとそんな気配。
そう思っていた時、面白い川柳を読んだ。「娘来て 誰もいないの? オレいるよ」 「孫が言う じいちゃんがいる ばあちゃんち」。どうやら子や孫から見るじいちゃんは、とっくの昔に存在感は希薄になっている。そうだ、奥さんあっての私。これからは心を入れ替えて奥さんに尽くすことで、男としての存在感を強める努力をしよう。