写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

ブログ8年目

2011年11月28日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 2004年11月1日に、ブログを始めた。それからの日々、書くことのある日もない日もあったが、努めて何かを書くようにしてきた。今8年目に入ってすでに1カ月が経っているが、今年は何かとあわただしく、8年目に入ったことすら気が付かずにいた。
  
 「ブログの効用は?」と聞かれれば、まずは暇つぶし。定年後の持て余す身を、これを書くことで救われた。また何か書こうと思えば、社会や自然や人を見る目が丁寧になる。何事に対しても漠然と見たり感じたりするのではなく、その中から何かを発見してみたくなる。生きる姿勢や日々の行動が積極的になる。自分自身が活性化する。

 過去7年間で掲載したブログは、数えてみると約1,700編。1年あたりの掲載数は年々少なくなってきているのは、マンネリによる感性の低下か、はたまた貯め込んでいた話題を書き尽くしてきたせいか。
 
 この1年分をプリントアウトしてみると、B6版で250ページになっている。これに目次と表紙を付けて、7冊目のたった1冊の本を作り始めようとしている。タイトルは? この1年の出来事で1番印象に残っていることを言葉にして表現してみたい。

 本の形にしておくことは、パソコンの画面で一つずつ読むのとは違っていいことがある。書棚を眺めて、まずは売れっ子作家気取りになれる。やおら1冊を取り出しぱらぱらとめくり、興味あるエッセイを見つけて読み返し、その頃の自分に立ち帰ってみる。単に思い出に浸るのではなく、今の自分を軌道修正することができる。言ってみれば、数年前の自分と今の自分を比べて見ることができる便利な多面鏡を手にしているようなものである。

 こうしてブログを書いている日々は、心身ともに健康な証拠。3日3月3年はとっくに過ぎた。次なる目標なんて何もない。無駄に過ごす日がないよう、これからも感性のアンテナを高くして書いていきたい。「読んであげてもいいよ」という方、これからもお付き合いよろしくお願いいたします。

 


「11-27」

2011年11月27日 | 季節・自然・植物

 「Yちゃんが生まれた日は、凍えるような寒い日だったんよ」。
 子どもの頃、誕生日を迎えた日には、毎年決まったように母は私にこのセリフを言った。太平洋戦争が始まる直前の11月27日、中国は大連の、父が勤めていた満州鉄道の社宅で産湯を使った。
 
 父母から聞いた話によると、社宅は赤レンガ作りの2階建て、暖房設備と言えば床下のオンドル、窓はすべて2重窓。冬の寒さと言ったら言葉にならないと言って、あまり話してはくれなかった。風呂は会社の正門前にある共同風呂。家族そろって風呂に行った帰り道、手に持っていたタオルはカッチカッチの木の棒状態となる。鼻水でも出していようものなら、家に着くころには鼻から氷柱が垂れた。立ち小便をしたら、そのまま放物線を描いて凍った?とはちと大げさか。

 窓には雪印の商標のような、きれいな氷の結晶がついていたことは、はっきりと覚えている。5歳になった時に引き揚げてきたが、寒かったこと以外の記憶はあまりない。大連駅前にあった三越に路面電車に乗って連れて行ってもらったこと、保育園に通っていたことなど、断片的なことをほんの少し覚えているだけだ。
 
 そんな厳寒の中で生まれたが、このところのこの暖かさはどうしたのだろう。薄着をして外出しても汗ばむほどの陽気が続いている。ひと昔前のこの季節は、木枯らしも吹き、間もなく師走、さあ寒くなるぞという気配が十分していた。今は、凛とした寒さの中、マフラーを首に巻き、コートの襟を立てて歩くようなことは全くない。四季のない亜熱帯地帯に移行し始めているようだ。

 昨年末、ロードスターを買った時、ボケても分かるように、5000円出してナンバープレートに「11-27」と誕生日を書いてもらっている。今年で何歳になったかは、ネットで「太平洋戦争開戦」と検索して調べてみないと分からないほど、思えば長い間生きてきた。そのせいか目新しいことに遭遇することは少なくなったが、今頃になって初めて気づかされることもまだまだある。

 月並みだが、色々ある身体とうまく付き合いながら、知への好奇心を掻き立て、意義ある毎日にしていきたい。さんまではないが、生きてるだけで丸もうけの精神で……いくぞ~


閑話3題(2)

2011年11月25日 | 生活・ニュース

昨日の病院通いに引き続いて、今日は朝から歯医者に行った。その行き帰りで感じたことを3題、書いてみました。

 その1;
 病院に向かって歩きながら、あることを思い出した。裏の団地に心安い年配のご婦人がいる。通りがかるたびに何がしかの雑談をする。そのご婦人が、ある朝早く出かける時に私と眼が合った。「おはようございます。朝早くから、お出かけですね」と言うと「今から眼医者に行ってきます」と答える。どうやら年配者が朝早く出かけるところは病院に決まっているようだ。ベテランの年配者同士の朝の挨拶は「おはようございます。今日はどちらの病院ですか」と聞くのが正しい挨拶の仕方だと聞いたことがある。まさに今の私がその渦中の人である。いとおかし。

 その2; 
  帰り道、市役所通りのコンビニに立ち寄った。例年に比べて、スタートダッシュがやや遅れたが、年賀状を買うためである。30数歳の小太りの男性店員がいた。「○十枚下さい」と言うと、体つきに似合わない笑顔で「いよいよ年も押し詰まりましたね。今から年賀状、忙しいですね」と言いながら包んでくれた。黙って包んでくれても何ら問題はない中、笑顔とひと言で応対してくれる。私も気持ちよく挨拶をして店を出た。こんなちょっとした交流で、年末のとがった心の角が取れるように感じた。又このコンビニに来よう。

 その3;
 最近、スマートフォンが気になっている。ネットで色々調べて、「買うのならこの機種だな」と一応の目星は付けている。病院からの帰り道、携帯電話のショップの前を通りがかった。最新機種が並べてある。手に取って現物を見たくなり入ってみようと思ったが、店の中で店員は向かい合って朝礼をしていた。入口には「10時開店」と張り紙がしてある。時計を見ると9時55分だ。ドアはまだ閉まっている。しばらく立って中を見ているとき、朝礼をしている何人かの店員と眼が合ったが何ら反応はない。開店時刻には至っていないが、私が店員なら多分こうするだろうなと思いながら立ち去った。規定や規則が最優先するマニュアル社員。たまには臨機応変ということが、あっていいかも?


閑話3題

2011年11月24日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 朝1番、人間ドックで指摘された点をフォローすべく、かかりつけの病院へ向かった。最近は歩いて30分くらいで行けるところには、極力歩いて行くようにしている。その行き帰りに見たり感じたりしたことを3題、オムニバス形式で書いてみた。

 その1;
 小学校の向かいに小さな公園がある。その間には車両が通行出来ない道路がある。5年生位の児童が寒空の下、好きな方向に向いて道路に座り込んで写生をしていた。すでに絵具をぬり始めている子もいる。「写生だね」と声をかけると「おはようございます」と挨拶が返ってきた。
 男の先生がそばに立って何やら指導していた。そんな様子を見ていた時、私が小学3年の頃のことを思い出した。先生から「色を重ね過ぎて暗くなっている」と指摘されたことがある。それ以来、絵を描くことが嫌いになったと言っては言い過ぎだが、いまもって絵を描くことが大の苦手である。ほめて伸ばす。この先生はどうかな?

その2;
 旧国道沿いの小川の土手を歩いて帰った。風が冷たい。ダウンのジャケットを着ていて正解であった。愛する平家山も青空をバックに、頂きがすっきりと見える。その時2羽のシラサギが上空背後から追い越して飛んで行った。
 先行するシラサギAをもう1羽のBが追っかけている。Aが左に行くとBもすかさず後を追う。右に行けば右に行く。Aが電線に止まった。Bは3mくらい離れた所に止まったが、止まるや否やAは直ぐ逃げた。Bはまた追う。別の場所の電線にAが止まる。Bも追って止まる。又逃げる。
 何度も同じことを繰り返している頃、別のシラサギが1羽やってきた。その瞬間、Bはどこかへ飛び去った。シラサギの世界も好きとか嫌いとか、三角関係もあるのだろう。生き物、基本的には皆同じ。どこの世界にも、もてない奴は苦労している。かつての我が身を思い、苦笑い。

その3;
 立川談志が亡くなった。人情話が得意だったという。その中の一つに「三方一両損」というものがある。「左官金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎は一旦落とした以上、自分のものではないと受け取らない。大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、三方一両損にして解決する」というものだ。
 しかし、どう考えてみても3人が皆等しく1両ずつ損をしてはいない。左官金太郎は2両の丸もうけ。タイトルに偽りありだと思うのだが……。ねぇ談志さん! 得意の毒舌で、どう説明しますか? 「うるせぇ!!」って? ごもっとも。「ダンシ ガ シンダ」


イエン

2011年11月23日 | 生活・ニュース

 「念のため組織を採りました。検査をしてみましょう。結果は2週間後に分かります」。若い医者が写真を指さしながら言った。

 毎年、人間ドックで検査を受けている。昨年同様、胃の検査は口からではなく、鼻から内視鏡を入れての検査を受けた。それでも内視鏡が喉のあたりを通過するときには咽頭反射を起こして何度も「オエッ」となる。何事に対しても鈍感な私だが、こと喉に関してだけは感度がよすぎるようで困る。

 検査が終わったあと、医者の前に座って結果を聞く。胃壁に1か所小指の先ほどの小さく赤みがかったところがあった。念のためその個所の組織を採取したという。「多分悪いものではないと思いますが、組織検査に出しておきます」という。

 それから2週間、小春日和の天気の良い日が何日もあったが、遊びに出る気がしない。吉和のあたりは紅葉が美しい季節だ。見に行ってみたいとは思うが、今一つ晴れやかな気持ちになれない。ガレージのロードスターの周りをぐるり回ってみたり、ボンネットを開けてほこりを払ったりしてみるだけだ。

 図書館に走り、10冊借りてきた本を読んでみるが、一字一句を目で追うのではなく、斜めにはしょってページをめくるだけ。面白い話の本を読んでも、窓の外の明るい景色を見ても、心の底から楽しむ気持ちになれない。秋雨がしとしと降るような日には、そんな気持ちが倍増する。

 しかし、一方では「まあ、何か見つかったら見つかったでいいや。その時にはその時だ」という気持ちもある。若いころは「もしそうだったら、どうしよう」と、病気を恐れる気持ちが強かったが、この年になると、「仕方ない。なるようになるさ」と達観した気持ちの方が強くなっている。

 こうしてみると、年を取るのも悪くはない。同じ現象に対して受容・寛容の気持ちになれる。さて当日、神妙な顔をして医者の前に座った。「胃炎でしょう。悪いものではありません」。病院を出て空を仰げば晩秋の秋日和。「今日はドライブだ~」。無罪放免、えん罪であった。でもねぇ、医者に対して文句はイエン。