写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

上弦の月

2015年04月26日 | 季節・自然・植物

 今日は4月26日、空を見上げると月齢7.3日、上弦の月が真上に出ていた。昨日より一回り大きくなっている。今夜もデジカメを持ち出して、懲りることなく望遠で写真を撮ってみた。

 上弦の月を撮るのは、昨夜とは違う意味で難しい。真上に出ているので、私が持っている安い三脚ではカメラが真上を向いてくれない。脚の2本を短くして庭に寝転び、あり得ない体制でカメラを構え、ぶれないようにタイマーでシャッターを押して撮った。

 そんな努力の結果がこの写真。日に日にクレータの数が増してくる。あと7日間、満月になるまで毎夜カメラで追ってみよう。私の望遠熱に文句ひとつ言うことなく付き合ってくれるのは月くらいしかない。もうしばらくオツキ合い願いますよ。ねっ、お月さん。


おぬし、やるなっ

2015年04月25日 | スポーツ・山登り・釣り・遊び

 最新鋭のコンパクトデジカメを買ってから1週間が過ぎた。最近の電気製品は、簡単な取扱説明書が付いているだけで、詳しい操作はインターネットで見るようになっているものが多い。このデジカメもそうなっているが、望遠を使ったり動画を撮ったりなど、ごく普通の操作は何も見なくても取り扱うことはできていた。

 昨晩、三日月よりは少し膨らんだ5日目くらいの月が出ているのを見て望遠で撮ってみたくなり外に出た。液晶画面で月を捉え、望遠の倍率を上げていくと月が画面から消えてしまう。再び捉えようとしても、三脚を使っていてもことのほか難しいことが分かった。やっと捉えて撮ってみるが、明るく写って肝心のクレータがうまく撮れない。デジカメでは無理なのかと思って諦めて家に入った。

 インターネットで取扱説明書を開いてみると、なんと180ページにわたっていろいろなことが書いてある。4年前に買ったデジカメからは想像できないあらゆる機能がついている。デジカメとは、全自動にしておけばシャッターを押すだけで写真が撮れるくらいのものだと思っていたが、今のデジカメとはそんなものではない高級機能を満載したカメラであることが分かった。

 望遠といえば30倍、画質が少し落ちることを許せば120倍までも。手動にすれば絞りもシャッター速度も任意に設定できる。画質もセピア色はもちろんいろいろ用意されている。動画を撮っても、デジカメの中で編集が出来る。その他たくさん驚くような機能があるが、当面は使い道がない上、使い方をまだ理解していない。

 これを読んで、早速シャッター速度を手動で1/160秒に設定し、月を120倍の望遠にして撮ってみた。裸眼ではしかと見えないクレーターがはっきりととらえることが出来て、奥さんに見せると小さな感動をしてくれた。それにしてもこのデジカメは機能が多すぎて、直ぐに使いこなすわけにはいかなさそうだが、果たして全部の機能を使いこなしている人はいるんだろうか。小さなデジカメを膝に、そんなことが気になっている。キャノンSX710HS、おぬし、やってくれるじゃないか。


不満解消

2015年04月22日 | スポーツ・山登り・釣り・遊び

 

 13年前に初めてデジカメを買った。液晶画面の大きなものが発売されるたびに新しいものに買い替え、今は3台目のキャノン製IXY910というのを使っているが、ひとつ不満があった。

 ズームは光学6.1倍、デジタルズームで15倍のものだが、庭にやって来たメジロを驚かせないように家の中から撮ると、ズームを最大限にしても画面の真ん中に小さく写るだけであった。ズームレンズが取り付けられる一眼のデジカメの購入を何度も考えてはみたが、なにぶん重すぎて持ち歩くには体力が要りそうなので止めた。

 ズームへの不満を抱えながら小型のデジカメと付き合っている中、知人が自作のDVDをプレゼントしてくれた。再生してみて驚いた。南岩国の干潟にやって来る野鳥が、直ぐ目の前でエサをついばんでいるように大きくはっきりと動画で写されている。説明の文章も書き込んである。まさに「岩国の野鳥図鑑」のようである。

 さぞや高級カメラで撮ったものに違いないと思って尋ねてみると、「このデジカメですよ」といって見せてくれたものは、キャノン製の「Power Shot SX700」というコンパクトデジカメであった。光学ズームで30倍、デジタルズームで60倍となり、望遠レンズで言えば750mmに相当する。画像が少し劣化するのを許せば120倍・1500mmもの高倍率の写真が撮れるという。

 最新のデジカメの進化に疎かったが、知らぬ間にこんな高倍率のデジカメが出回っている。カメラ本体の厚さは3.5cmしかないのに、最大の望遠時にはレンズは3段階で6cmも飛び出してくる。この最新デジカメがどうしても欲しくなり、DVDを見せてもらった翌日買いに行った。

 早速カメラを手にして散歩に出かけた。遠くの家の屋根で小鳥がさえずっている。望遠で1枚パシャリ。画面で見ると見たことのない鳥が大きくはっきりと写っている。効果ありだ。今度は吉香公園に行き山裾から岩国城をパシャリ。「おおっ、こんなに大きく写っている」。望遠レンズのお陰で今まで見えていなかったものが見えるようになった。散歩中、今までと違う楽しみが生まれた。
  


似た者同士

2015年04月21日 | 生活・ニュース

 数日前、岡山から電話がかかって来た。会社に勤めていた40代、立ち上げた新製品の品質問題で、苦労を共にした開発担当の男からであった。数年に一度、所用で岩国に来ているが、今回は入社した時の同期会に出席するために来るという。

 「茅野さん、体調は大丈夫なんですか? 本当にお元気なんですか?」と、妙に体のことを聞いてくる。おかしいな、誰かに何か変なことでも聞いたんだろうかと思いながら、同期会の翌日、ランチを共にすることを約束して電話を切った。

 さて、会う日の昼前、待ち合わせの場所に車で迎えに行き、イタリアンレストランへ案内した。ユーモアがあり話題の豊富な男なので1年半ぶりではあったが、笑いながら会話を楽しんでいた。数日前に電話をかけて来た時、どうして私の体調のことをくどく聞いてきたのかを尋ねてみると、思いがけない答えが返ってきた。

 「茅野さんは今年、私に年賀状を出してくれましたか? 年賀状が来なかったので体調でも悪いのかと思った」と、意外な言葉であった。「出した、出した……出したと思うよ」と答える。毎年、パソコンに入れてある住所録を見ながら順に宛名を書いていく。ひょっとすると、その時ひとつ飛ばして書いたかもしれないが、意識して出さなかったということはないと説明した。意識して出さなかった人から年賀状が来たときには、直ぐに書いて元日の午後には必ず出している。

 ランチを済ませた後は、我が家でコーヒーを飲みながら過ごしたが、話は尽きない。また会うことを約束して駅まで送って行き、家に帰ってみると、傘立てに大きないい傘が入っている。「あっ、置き忘れて帰ったんだ」。時すでに遅し。そういえば、来たときに降っていた雨は上がり、玄関先に咲いているハナミズキを見上げながら送る車に乗り込んでいた。

  このたびは、出さなかった年賀状のことを少し咎められたが、今度会ったときにはお返しに、高級そうな傘を置き忘れたことでちょこっとからかうネタが見つかった。こんなブログを書いている時その彼から電話がかかって来た。「申し訳ないけど高級な傘なので、丁寧に保管しておいて下さい」と。どうやら電車賃を払ってでも取りにくるほどの高級品ではないようだが、もういらないとは言わなかった。


仕事に行こう

2015年04月18日 | 生活・ニュース

 20年間、テレビ東京系「出没!アド街ック天国」の名司会を務めてきた愛川欣也さんが亡くなった。全国いろいろな街の名所やグルメやファッションを紹介する私の好きな番組であったが、「今年の3月に80歳という節目を迎えて降板した」と報じられていた。、実は昨年末、病気が見つかり治療に専念するために降板したものであった。発症後も仕事に情熱を燃やし、息を引き取る直前まで「仕事に行こう」と寝言のように言っていたという。おもしろい語り口で、笑顔を絶やさない明るい人であった。

 愛川さんが息を引き取るまで言っていた「仕事に行こう」という言葉の「仕事」って一体なんだろうと思った。現役世代の男性も女性も、毎日「仕事」に勤しんでいる。今の私は毎日遊んでいるが、現役時代には何の疑問を抱くことなく毎日「仕事」に出かけていた。その対極の言葉は「遊び」であろう。愛川欣也さんの訃報記事の中の「仕事」という漢字を読んだとき、この人の言っている「仕事」とは何だろうと考えてみた。

 手元の辞書を引いてみると「仕事」とは、1.何かを作り出す、または、成し遂げるための行動。 2.生計を立てる手段として従事する事柄。職業。 3.したこと。行動の結果。業績。 4.悪事をしたり、たくらんだりすること。仕業。所業。と書いてある。

 現役時代の「仕事」といえば2.の「生計を立てる手段」であり、家族もいることだし、上司に叱られようが怒なられようが、泣きながらでも仕事に出かけた。ところが退職して全くの「遊び人」となった今でも、奥さんに「ちょっと裏で仕事をしてくる」というように、一文の稼ぎもないくせに「仕事」なんて言葉を口にすることがある。これは無職となった男の見得などではなく1.の「何かを作り出す行動」のことで、木工や本作り、塀のペンキ塗りもそのひとつといってもよい。

 愛川欣也さんも、あれだけの業績があれば「仕事に行こう」とは、もちろん「生計を立てる手段としての仕事」ではなく、「何かを作り出す行動」としてのまだやりたい「仕事」があったのだろう。何歳になっても何かを作り出すという「仕事」をし続けたいものである。そういえば手前味噌になるが、こんなエッセイを書くことも、文章を作るという意味で、立派な「仕事」の定義に入るのでしょうね。「さあ、パソコンに向かって今夜はもうひと仕事、やってみるとするか」。