写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

観光案内

2016年11月30日 | 生活・ニュース

 2週間前には名古屋から、今日は東京から、現役時代に岩国の工場で一緒に仕事をした4年後輩のNさんと1年先輩のkさんが岩国にやってきた。それぞれ開催される会社の同期会に参加するためであった。Nさんとは会の前日に昼食をとりながら、kさんとは会の翌日である昨日の午前中に会うことが出来た。

 Nさんは3年ぶり、Kさんは8年ぶりの岩国だという。かつて2人とも10数年間岩国の社宅に住んでいて、子育てもし、充実した仕事をした仲間である。「当時とあまり変わっていない岩国で、今日は知らない場所を案内しましょう」といって短い時間、2人とも吉香公園へ連れて行き、同じコースで隠れたスポットを案内した。


 岩国に生まれ育った人でも、岩国のことをあまり知らない。当の私がそうであった。長年住んでいて、錦帯橋があることくらいは知っていたが、それ以上のことといえば、とても人様を案内できるレベルのものではなかった。これではいけないと発奮し、6年前、仲間と市民に対して岩国に関する知識を試す「岩国検定」とやらを企画・実行した。岩国のもろもろを、ごく表面的にではあるが紹介する「いわくに通になろう」という冊子も出版し好評を博した。

 その活動で培った博識ならぬ薄識を披露する絶好の機会が到来したとばかり、吉香公園へ向かった。まずはやや季節遅れとなった紅葉谷公園へ。いよいよ秘密の史跡へと向かう。「吉川家墓所」である。岩国の住民でも知らない人が多いが、一度は見ておく価値のある石造文化の史跡である。

 「国の歴代藩主・吉川家の墓所で洞泉寺域内にある。6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓51基があり、『山のお塔』と『寺谷のお塔』に分かれている。墓石の大半は五輪塔で石造文化財としての価値は高いく、山口県指定文化財となっている」(岩国検定)。


 2人ともこんな史跡があるなんて全然知らなかった。岩国のことは大抵知っていると思っていたようであるが、「どっこいまだ知らない隠れた名所はまだまだありますよ」と、少し皮肉って答えておいた。岩国検定で学んだことが、初めて活きた観光案内であった。「今度は、一杯やりながらお話しましょう」といって、しばしの別れをした。「朋あり遠方より来る、観光案内また楽しからずや」。
 

 

 

 

 


似て非なる者

2016年11月29日 | 生活・ニュース

 定年退職をして数年がたったころ、ソウルへ旅行したときに買ったメガネのレンズに細かな傷がついて視界を妨げるようになった。フレームにも、細かな傷が付いている。そろそろ替える時となったと判断し、昨年の夏、近くにあるメガネ屋さんに行った。

 陳列台にはデザインや色や材質など異なるものが、どうだと言わんばかりに沢山並べてある。どれを選べばよいか見当がつかない。今までと同じで、レンズの枠のない軽いものを出してもらうようにお願いした。その中からあまり高価ではなく、私のセンスでこれだというものを注文して帰った。

 1週間後に受け取り、掛けてみると中々心地よい。掛けているのを忘れるくらい軽く、締めつけ感もない。それもその筈である。ツルは1本の太い棒状ではなく、弾性のあるチタン製の細い3本の針金で出来ている。

 私の持っている小物の内、時計と並んでお気に入りの一品として愛用していた。ところがつい最近、テレビを見ていて面白いことを発見した。今年のノーベル医学・生理学賞の受賞者となった東京工業大学大隅 良典栄誉教授の横顔が大写しになったときである。「あっ、私と同じメガネをかけている!」と、驚いた。

 細かな部分のデザインは少し異なるが、基本構造は同じでメガネのツルに大きな特徴があるので直ぐに分かった。「Line Art」という日本のブランドのもので、その中でも「テノール」というシリーズのものである。「安心感のあるオーソドックスなフロントスタイルと、細身でシャープな、そしてエッジをきかせたテンプルラインとの組み合わせで構成されています。軽さと清潔感のあるイメージは、ビジネスシーンにふさわしいコレクションです」と宣伝文句に書いてある。

 私は買ったとき、ブランド名もシリーズ名も何も知らずに、値段が手ごろで、デザインが気に入ったから買ったものである。それが偶然にも、何とノーベル賞の受賞者と同じメーカーで同じシリーズのメガネだったとは、単純に嬉しい気持ちになった。

 このことを良いように解釈して強引に表現すれば、「こと私のメガネ選びに関しての感性は、ノーベル賞受賞者と同じであった」と言っておこう。「だからどうなんだ」と言われても、笑っているしかない話ではあるけれど…… すみません。まっ、それだけのことです。


貸したもの

2016年11月28日 | 生活・ニュース

 他人に自分が持っているものを貸すことは時にある。私が最近貸したものとしては、電気ドリルや電動ノコなどのDIY道具、大口のスパナやモンキーなどの工具類、庭木剪定の電動バリカンやチェーンソー、高圧洗浄機、読み終えた小説や趣味の本、あとは私が持っているちょっとしたリフォームの技術と腕くらい。

 少額とはいってもお金の貸し借りは厳に慎みたいが、うっかり財布を忘て出かけたようなときには、頭を下げて拝借することはある。こんな時には直ぐに返しておかないと忘れるばかりか、忘れたときには人格を疑われかねないので注意を要する。

 本は繰り返し読むことがあまりないので、貸したことさえ忘れてそのままとなっていることもある。借りた方に悪意はなく、すっかり忘れているので、時間が経ち過ぎると催促することさえはばかれる。

 
 スパナやペンチなどのちょっとした工具は、少々手荒に使っても簡単に壊れたり消耗したりしないので「貸して下さい」「ああいいよ」と、一つ返事、ではなく二つ返事で気持ちよく貸し出すことはよくある。貸した工具が中々戻って来ないようなとき、必要に迫られて催促の電話をすることもある。使い減りなどしないそんなカナヅチであるが、借りに行ったときの面白い話が落語にある。

 商店の内壁に釘を打つことになり、主人が丁稚に、隣の家からカナヅチを借りてくるよう命じるが、丁稚は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、金釘だと答えると、「金と金がぶつかるとカナヅチが擦り減る」と言って貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使おう」と言ったという。

 いくらケチだといっても、自分が持っているものを、借りに行くというほどケチな人はいないが、そんなことを言いながら机の上を見ると、買った覚えのない本が数冊置いてある。いつ誰から借りたものか全く覚えがない。借りたら返す、返さなければ泥棒と同じこと。むかし、子供に言って聞かせたことを、物忘れがひどくなってきた自分に向かって言い聞かせている。



 

 

                         


それは先生

2016年11月25日 | 生活・ニュース

 テレビで「あいつ、今なにしてる?」という番組を見ていた。有名人が子どものころ、仲が良かったり、部活で共に頑張ったり、はたまた恋心を抱いたりした人の現在の姿を紹介して、その人からのメッセージを有名人に伝えるという番組であった。人はそれぞれ、幼いころ胸に刻んだ懐かしい思い出を糧にして、今を頑張っていることを知った。

 このテレビを見ていた時、私の幼いころの思い出が蘇ってきた。あれは何年前のことか? 数えるために折る指が痛くなるほど昔の出来事である。小学1年の多分2学期のことであった。担任の先生に子どもが生まれることになり、Fという若い女の先生がやってきた。

 戦後3年しかたっていない時である。目がぱっちりとして色の浅黒い優しい先生であったくらいしか覚えていない。半年が過ぎ、1学年が終わる時、F先生が早くも転任していくことを聞かされた。

 転任先は、岩徳線で当時岩国駅から5つ目にあった米川駅がある村の小学校だという。その村には先生の家があった。わずか半年余りの短い間教えてもらっただけの先生であったが、クラスの雑用係をやっていた関係で、先生とは他の生徒より少し深い付き合いをしていた。

 そんなF先生は、私の家の近くを走っている岩徳線の汽車に乗って通っていた。転任していく最後の日の夕方、私はひとり踏み切りに立ち、蒸気を吐きなが走って来る先生の乗っている汽車の窓に向かって、通り過ぎるまで大きく手を振り続けた。先生の姿を見つけることはできなかった。

 それから1年が経った頃、先生から手紙が来た。「○月○日、先生は日直なので、学校に遊びに来て下さい」と書いてある。その日、汽車に乗りいそいそと出かけて行ったが、どんな話をし、何をして過ごしたか全く記憶にない。数年して先生は結婚して下関に行ったことまでは知っていたが、その後、音信は途絶えた。

 通っていた小学校のそばを通る時、グラウンドで生徒を前にした若い女教師の姿を見ると、幼い私が胸を焦がし慕い続けた人の名は、森昌子が歌った歌詩と同じ「それは先生」であったことを懐かしく思い出す。若くきれいな女の人を見ると直ぐ好きになる性格は、今もなお健在である。

 


旗 日

2016年11月23日 | 生活・ニュース

 今日11月23日は、国民の祝日「勤労感謝の日」であった。古い言い方をすれば「旗日」ということで、各家の玄関先に国旗の日の丸を掲げて国を挙げて祝う日である。ところが最近では、個人の家で国旗を掲げている風景を見ることは極めて少なくなっている。新築の家を見ても玄関先に国旗を掲げるための支持金具が取り付けられている家は殆んど見当たらない。

 国の祝日といっても、国旗を掲げる意識は乏しくなっている。アメリカやヨーロッパの諸国のように、街中を歩いていると、祝日でもないのに到るところで国旗を掲げている景色を多く見るが、日本ではそんなことは甚だ少ない。

 改めて「勤労感謝の日」とは何なのか調べてみた。 「勤労を尊び生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨のもと、戦後間もなくの1948年に国民の祝日として制定されたという。実は11月23日という日はもともと「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれる祭日であった。

 新嘗祭とは、天皇が日本国民を代表し、秋の実りを神に感謝を捧げるための宮中祭祀が行なわれる日であった。つまり日本の収穫祭、言いかえれば日本版「ハロウィン」である。敗戦直後、連合軍の総司令部は、天皇と国民が一体であった新嘗祭を宮中のみに限定し、国民からは完全に切り離して「勤労感謝の日」という本来の意義とは全く関係のない内容の祝日に変えたものである。

 この頃では、祝日といっても「成人の日」や「海の日」「敬老の日」「体育の日」などのように、○月の第○月曜日などというように、ただ単に3連休を作るために休日とし、その日が由緒ある特定の日というわけではない祝日がある。

 かつては初代天皇である神武天皇即位を祝う「紀元節」、明治天皇の誕生日の「明治節」、昭和天皇の誕生日の「天皇誕生日」を、それぞれ「建国記念の日」「文化の日」「昭和の日」と名を変えて祝日としているが、時には由緒ある休みであったことを思い起こし、久しぶりに国旗を掲げてみると、心なしか背筋が真っすぐ伸びたように感じた。