玄関から裏庭に出るところにナツツバキの木がある。28年前、家を新築した時に、記念樹として丈が2mくらいの株立ちのものを植えていた。それが今や4mを超すまでに成長し、6月には白く清潔そうな花を沢山咲かせて楽しませてくれる。
そんなナツツバキであるが、片手で握れる程に細かった幹が、今では太いところは両手の指で輪を作ったくらいの太さになっている。毎年この季節には幹の表面の皮が自然に薄く反り返って剥がれ、美しいまだら模様を見せてくれる。皮は放置しておくと自然に落ちるのであろうが、私はその皮を強制的に手で剥がす時の感覚が好きで、手が届く限りの幹の皮を剥いでいる。
そういえば、この表皮を剥ぎ取る感覚は、幼いころに似たものがあることを思い出す。足を擦りむいた傷痕が直るに従って堅い「かさぶた」となってゆく。完全に直れば何かの拍子にポロリとはげ落ちるが、それまで待てず、無理やりに恐る恐る剥ぎ取ることがあった。そんな時、ちくりと痛くて、剥いだ痕には小さく血が出ていた。それでも何故か早く剥ぎとりたい衝動にかられたものである。
「かさぶた」とは瘡蓋と書き、傷口ににじみ出てきた体液や膿、血液などが固まってできる皮のことをいい、出血を止める役割や菌が入ることを防いだり、傷をふさぐなどの役割をもつ。昔はその傷痕が大人になっても残っていたが、現在ではかさぶたを作らない「湿潤療法」と呼ばれる傷口を湿らせる治療法や、創傷被覆材で傷口を覆う方法があるという。
今どきの少年は、ペンダコやスマホダコは出来てもかさぶたの痕があるような子どもは、もはや絶滅しているのかもしれない。古い傷痕が、わんぱく少年の勲章であったのは今や昔の話のようである。