この日曜日、あいにくの雨の中、同級生だったH子さんから案内があった俳画展を観に市民会館に出かけた。所属している同好会会員の作品展で、額に入ったものや掛け軸にしたものなどが部屋いっぱいに展示してあった。
H子さんの丁寧な説明を聞きながら、一つ一つ見て回った。俳画は自由奔放、天真爛漫が生命で、 童心に返って何にもとらわれずに楽しみながら描けば良い。草木や花鳥などの日常生活に密着した題材を絵にすることで、生活に潤いと喜びを与えてくれる。感動したものを、絵筆に托し、濃淡、かすれ、にじみ、ぼかし等の筆法で自分らしい個性的な俳画を作ることは、本当に楽しいと話してくれた。
全てを見終わって展示してある部屋を出ようとした時、壁に紙が貼ってあるのを見つけた。「俳画とは、大胆な省略、思い切った運筆、描きつくさずして、余白に語らせる心を大切にします。書き添えられた賛句と相まって、情景、色彩、余韻、ひびきと言ったものを、見る人に感じさせるものです」と書いてある。同好会の元・会長さんの言葉だという。
家に帰って調べてみると「俳画は、大胆な省略によって簡素な画にすること。細密に描きつくさず、余白の空間によって、見る人の想像力を無限に広げることが出来る。余白に心を語らせる。とは言いながら簡素な画であればいいわけではない。そのためには自然や物の形の生命を見つめ、美しさをしっかりとらえ、必要不可欠な最小な線や面で表現する力が必要」と書いてある。
展示物を見て回っているときには気が付かなかったことを、家に帰ってから気づかされた。あの一見簡素な画を観て、このようなことを感じ取らなければ俳画を観たことにならなかったのである。俳画も中々奥が深い。そんなことを思いながらエッセイのことを考えてみた。
エッセイでも俳画に似たようなことを言われることは結構ある。何かを書き、その最後にまとめのようなことや蛇足のようなことを書いて、すべて書いたつもりになっていることがある。結論の部分は、余韻を持たせながら文章を収束させるものであるから、あまり親切に書きすぎないことが大事だ。読者は、行間や、最後の文の後ろに漂うものを発見することに、読むことの喜びを感じるという。俳画はもちろん、エッセイにも余白が大切であることを再認識した。