写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

余 白

2012年04月25日 | 生活・ニュース

 この日曜日、あいにくの雨の中、同級生だったH子さんから案内があった俳画展を観に市民会館に出かけた。所属している同好会会員の作品展で、額に入ったものや掛け軸にしたものなどが部屋いっぱいに展示してあった。

 H子さんの丁寧な説明を聞きながら、一つ一つ見て回った。俳画は自由奔放、天真爛漫が生命で、 童心に返って何にもとらわれずに楽しみながら描けば良い。草木や花鳥などの日常生活に密着した題材を絵にすることで、生活に潤いと喜びを与えてくれる。感動したものを、絵筆に托し、濃淡、かすれ、にじみ、ぼかし等の筆法で自分らしい個性的な俳画を作ることは、本当に楽しいと話してくれた。

 
全てを見終わって展示してある部屋を出ようとした時、壁に紙が貼ってあるのを見つけた。「俳画とは、大胆な省略、思い切った運筆、描きつくさずして、余白に語らせる心を大切にします。書き添えられた賛句と相まって、情景、色彩、余韻、ひびきと言ったものを、見る人に感じさせるものです」と書いてある。同好会の元・会長さんの言葉だという。

 家に帰って調べてみると「俳画は、大胆な省略によって簡素な画にすること。細密に描きつくさず、余白の空間によって、見る人の想像力を無限に広げることが出来る。余白に心を語らせる。とは言いながら簡素な画であればいいわけではない。そのためには自然や物の形の生命を見つめ、美しさをしっかりとらえ、必要不可欠な最小な線や面で表現する力が必要」と書いてある。

 展示物を見て回っているときには気が付かなかったことを、家に帰ってから気づかされた。あの一見簡素な画を観て、このようなことを感じ取らなければ俳画を観たことにならなかったのである。俳画も中々奥が深い。そんなことを思いながらエッセイのことを考えてみた。 

 エッセイでも俳画に似たようなことを言われることは結構ある。何かを書き、その最後にまとめのようなことや蛇足のようなことを書いて、すべて書いたつもりになっていることがある。
結論の部分は、余韻を持たせながら文章を収束させるものであるから、あまり親切に書きすぎないことが大事だ。読者は、行間や、最後の文の後ろに漂うものを発見することに、読むことの喜びを感じるという。俳画はもちろん、エッセイにも余白が大切であることを再認識した。


仲 裁

2012年04月19日 | 生活・ニュース

 我が家は今、外壁の一部取り換え工事をやっている。午後一番、足場の取り付け業者が3人やってきた。出かける用事があったため「夕方には帰ってきますので」と伝えて出かけた。

 夕方帰ってみると、足場の取り付けは終わり、すでに業者の姿はなかった。玄関のかぎを開けようとした時、ほど良い大きさのタケノコが2本、ポリ袋に入れて立てかけてあった。同封のメモを見ると、「Mより」と書いてある。同級生のM君が遠くから持ってきてくれたものだと分かり、すぐにお礼の電話を入れた。

 電話をしているとき窓の外を見ると、警官が数人行ったり来たりしている。何かあったのか? 野次馬根性旺盛な私は玄関を開けて道路に出ようとした。その時、わきの溝で何かがちょろちょろとうごめくのが見えた。よく見ると、トカゲ同士の争いであろうか、1匹のトカゲの下腹部にもう1匹が横からかぶりついたままもめている。

 その様子を観察しているとき、若いイケメンの警官が「ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが……」といって私に近づいてきた。「ちょっと待ってください。これを見てください。トカゲ同士が喧嘩をしているように見えますが、警官として仲裁しなくていいんですか?」と言ってみた。「暴力行為をしていますね。仲裁しましょうか?」と笑いながら話を合わせてくれたあと、「冗談はさておきまして」と真顔になって質問をし始めた。

 その日、裏の団地の1軒に、泥棒がガラスを割って侵入したという。数人の警官はその聞き込みをしているところであった。我が家の足場作業員に不審者を見かけなかったかを聞いたところ、昼過ぎに一人の男がやって来て「この家の人はずっと留守ですか」と聞いたという。その男に心当たりはないかという質問であった。

 M君に電話をして、足場作業員とそんなやり取りがあったかことを確認し、警察官にその旨を説明した。私の友達・M君がコソ泥容疑者のリストから消えた瞬間であった。「最近、この手の事件が増えていますので用心して下さい」といい残し、足元でもめていたトカゲのケンカの仲裁はしないままイケメン警官は立ち去った。

 胴をかまれていたトカゲの運命はこれいかに……。トカゲの命が大事か、コソ泥を捕まえる方が大事か。若い警官はきっちりと本来の自分の任務を遂行していた。それにつけてもこんな身近なところでコソ泥とは、用心、用心。
    (咲き始めた我が家の「花水木」)


判官贔屓(ほうがんびいき)

2012年04月10日 | 生活・ニュース

 「判官贔屓](ほうがんびいき)とは、不遇な人や弱い者に同情し、味方になることのたとえであることはご存じの通り。判官とは平安時代に置かれた検非違使の尉(じょう)のことだが、判官贔屓の判官は、「九郎判官」と呼ばれた源義経をさす。平家討伐に功のあった義経は、人々から称賛されたが兄の頼朝に憎まれた。奥州平泉に逃げた義経は、藤原秀衡に助けられたが秀衡の死後、秀衡の子である泰衡に襲われ自ら命を絶った。あえない最期を遂げた義経に人々が同情し贔屓したことから判官贔屓という言葉が生まれたのが語源だという。
 
 4月10日の今日、その判官贔屓のような気持ちを抱いているのがプロ野球の広島カープ。補強に金を思うようにかけることもなく、歴代の主力選手といえば他球団に強引に引き抜かれ、ドラフトで当てた原石のような人材をじっくり育ててなんとか1軍らしい選手に仕立てあげていく。選手への支払い年俸額は12球団中最下位。そんな中にあって、ここ数年、球団は黒字を計上しているという。何をとっても涙が出るような話が多いが、球団の経営としてはまずまずの成功を収めている。

 そんな広島カープが、春の珍事というか、例年のごとく鯉のぼりまでの命というか、開幕直後は2連敗したものの、その後は1分けしたのち6連勝と好スタートを切って目下驀進中である。札束にものを言わせて各チームの4番打者をかき集めた、あの読売巨人軍を3タテした日にゃあ、テレビを見ながら飲めないビールもうまかろうというものであった。

 勝負ごとというものはこれだから面白い。大人と子供の喧嘩のような取り組みかと思いきや、子供の方が3連勝だ。特に広島カープの熱烈なファンというわけではないが、場外からの応援となると、弱きものの味方、まさに判官贔屓となるのは仕方ない。

 しかし今年の広島カープは、馬鹿には出来ない。前評判通り投手陣がそろっている。エースの前田健太は先日のDeNA戦で、なんとノーヒットノーランまでやってのけた。大量点は取れなくても、わずか1点か2点を投手力で死守する戦法。これができている。4番バッターばかり揃えて、水ものの打力に期待する巨人に3連勝した時には、心底驚いた。広島カープよ、今年こそずっと巨人を判官贔屓させてほしいよ。


ほめ達

2012年04月08日 | 生活・ニュース

 日経新聞の1面コラム「春秋」に面白いことが書いてあった。「一般的には短所と見られる以下の言葉を、長所に変えて言い変えてみてください。気が弱い、空気が読めない、ケチ、決断力がない、わがまま、でしゃばり、気まぐれ」。これは「ほめる達人検定」という検定試験で出された問題だという。

 インターネットで「ほめる達人」を調べてみた。「ほめる達人とは、目の前の人や物・商品やサービスなどに独自の切り口で価値を見つけ出す価値発見の達人のこと」「ほめる達人、ほめ達検定で笑顔あふれる社会を作ろう」「あなたもなれる! ほめ達は価値発見の達人。ほめ達でコミュニケーション力が一気に上がります。ほめ達検定で、活き活きとした家庭や職場に」と書いてある。部下を積極的にほめる管理職の下で働く社員の方が、そうでない上司の場合より企画提案に積極的で、業績も上がるという。

 思い起こせば現役時代上司から褒められた記憶はあまりない。やって当たり前、出来ないときには怒られる。仕事の場ではこれが普通であった。そんな中にあっても、10年に1度くらいは、ひょんなことで褒め言葉をもらうことがあったように思う。

 先日、小学4年生になる孫息子が算数の問題を持ってやってきた。前日解けなかった問題を翌日やらせたらまたできない。学校でまだ習っていない領域の問題なので解けなくても無理はないとは分かっているが、教える立場としてはつい大きな声を出してしまう。解き方を理解しただけでもほめてやればいいものを、「また間違えるっ!」と、きつい言い方をしていることに、はっとする場面が何度かあった。

 「ほめて育てる」というのが、ものを教える場では鉄則のように言われている。この「ほめ達」もその類であるが、褒めることが甘やかしとなっては元も子もない。「鉄は熱いうちに打て」「獅子の千尋の谷落とし」ということわざもあるように、厳しく叱ったりする中からより高いレベルに這いあがろうとするエネルギーも生まれようというものである。

 「アメとムチ」「しっかりほめて、きっちり注意」、何ごとも相手の性格を良く見ながら、両刀を使って育てることになるのだろう。「ほめて育てる」に、少し疑問を抱いている男のつぶやきである。


祝・初出版

2012年04月06日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 岩国エッセイサロンの仲間である一丁 やったろう(Y)さんが、このたびエッセイ集を初出版した。Yさんは、サラリーマン時代の35歳から定年までの25年間にわたり、工場の社内報のコラムに毎月エッセイを書いていたほどの実力者。定年後はその余勢をかってブログや新聞へエッセイを投稿し続け、めでたく古希を迎えた。

 これを記念に、今まで書きためてきたエッセイの内、2008、2009年の2年間の中から選りすぐりのエッセイ170編を、B5版・240ページの本にして自費出版した。文字の打ち込みや編集、装丁のデザインもすべて自分でこなし、印刷・製本だけを業者に頼むという全くもっての自費出版書である。

 出来上がったばかりの「新刊書」を今日いただいた。タイトルは「我が人生 今が旬」。数年前、あるエッセイコンクールで最優秀賞をもらった時のエッセイのタイトルである。表紙には名勝・錦帯橋が刷り込まれていて品格のある若草色の装いだ。友の一人として厚かましくも巻頭に「出版に寄せて」と題して、出版の喜びの言葉を書かせてもらった。

 巻末にはYさん自らが「あとがき」として、自費出版に至った経緯や喜びを書いている。読むと、初出版の感激がひしひしと伝わってくる。この本を手に取った私も嬉しくなってきた。自分の人生を、こんな形で残しておくことは素晴らしい。数年前私も自費出版したことがあるが、今もその本を開くたび、あたかも自分の分身のように愛しい気持ちになる。

 Yさんの本は岩国市の室の木町と南岩国町にある大型書店に置いてもらっているという。多くの人の目にとまり、読んでもらえることを著者以上に期待している。心温まるもの、優しさあふれるもの、思わず笑みがこぼれるもの、家族愛に満ちたものなど多彩なエッセイが盛りだくさんで、是非読んでいただきたいエッセイ集である。