写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

邸宅美術館4

2012年07月31日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 先週末、幼なじみの坂井幸子さんが、お姉さんと「二人展」と題して絵画展を開催した。初日、朝早く奥さんと出かけたが、すでに多くの人が来場していた。キャリアーは十数年だというのに、100号という大きな絵が何点も飾られている。熱心に描き続けてきたことがよく分る。

 つい先日までの2年間、わが家の居間に飾らせてもらっていた「古都」という、パリの風景を描いた作品も出展されていた。どんな場所で見ても、躍動感があって見応えのある絵であった。そのすぐ隣に、花屋さんの店先を描いたものが3点並べてあった。

 どこか見たことのある店の構えだ。ハタと気がついた。たった十数分前、車で走った通りにある花屋に違いない。描いた本人に確認してみると、そうだという。一番大きなものは100号で、店の内外にピンクの花の束が置いてある。店先では、ジーンズ姿の女性店員が向こうむきで何やら忙しそうに作業をしている。活気ある開店準備を思わせる風景だ。  

 「今度はこの絵を我が家で飾らせてほしいな」とお願いすると、快く承諾してくれる。楽しみに待っていた今夕、「突然ですが、今から持って行きます」との電話。あたふたと準備をしていると、ご主人と2人で運びこんできた。居間のいつもの位置に吊り下げてもらった。

 何の変哲もない居間が、あたかもマジックでも見ているように、瞬く間に「邸宅美術館」に変わった。少し離れて眺めてみた。ピンクの花のおかげか、部屋が華やいで見える。絵の中の店員が、部屋に立っているかのようにも見える。私1人が眺めているだけではもったいない。ぜひ多くの人にも見てほしい。「二人展」見損なったあなた、我が「邸宅美術館」へぜひお出かけください。「邸宅」とは書きましたが、実はあばら家。でも絵だけは本物ですから。


半跏思惟像(はんかしいぞう)

2012年07月30日 | 生活・ニュース

 同級生の知人姉妹が長年描きためた油絵を「二人展」と銘打って、シンフォニア岩国で展示会を開催した。初日、奥さんと行ってみると大きな絵が所狭しに掛けてあり、すでに多くの人が鑑賞していた。新聞社のタウンリポートをしているエッセイ仲間のYさんも取材で駆けつけ、インタビューや写真撮影で忙しくしている。

 その日の夜、Yさんが会場で写してくれたスナップ写真をメールで送ってくれた。100号もある絵を知人や奥さんと見ているところを斜め後方から撮ったものがあった。見ると、真っすぐに立っているはずの奥さんの背中が少し前かがみになっている。散歩しているとき、いつも気になっていたことを言ってみた。

 「この写真を見ると、少し前かがみになって立っているぞ」と言うと、すかさず「半跏思惟像のようね」と、勝手に美化して言うではないか。んんん? 半跏思惟像だと~。なんとなく想像はつくが、念のため調べてみた。

 「半跏思惟像とは仏像彫刻で、台座に腰掛け、左足を垂らし、右足は左足のひざの上にのせ、右手をほおにつけて思考する姿のもの。日本では弥勒菩薩像に多くみられる」と書いてある。座っている上半身は、やや前傾姿勢ではあるが、奥さんの立ち姿とは大分異なり、どこからみても美しく座った姿である。

 「いやあ、半跏思惟像の写真とは、大分違うみたいだぞ」というと、「私には同じように見えるけど……」と一歩も引かない。「いやいや、随分違うよ。同じように見えるなんて、半跏思惟像じゃあなくて、目がオッカシイゾウ」と言って大笑い。蒸し暑い夏の夜に、ひや~っと冷たい風が漂った。
 


言葉は世につれ

2012年07月24日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 こんな独りよがりのブログを書いていて、間違った言葉の使い方や言い回しを指摘され恥をかくようなことは時々ある。言葉は、人との会話や本を読んだりしながら長年かけて習得していくものであろうが、一度間違えて覚え込んだものを修正することはなかなか出来ないでいる。

 つい先日、新聞で読者が投稿するエッセイを読んでいたとき、ちょっと引っかかる文章に出会った。これでいいのかな?と思い、辞書を引いてみると、私が思っていた通りの解釈が書いてある。「やっぱり、この文章はおかしいんだ」と納得がいった。

 その文章とは「すんでのところでバスに乗り遅れた」という短い一文である。辞書には「すんでのところ」とは「もう少しで、ある好ましくない事態になりそうなさま。あやうく。すんでのこと。『―おぼれるところだった』『ーバスに乗り遅れるところであった』」と例示までしてある。

 「すんでのところでバスに乗り遅れた」のでは、好ましくない事態になりそうなさまではなく、好ましくない事態になってしまっている。あやうく乗り遅れそうになったのではなく、乗り遅れている。

 しかし、この「すんでのところ」の言葉の使い方が、本当に正しくないかどうかは今は分からない。言葉は生き物だともいう。その時代の多くの人が使えば、間違った使い方であっても、その使い方でいいことになるというものだ。最近すでに定着した感のある「全然……です」もその例だろう。以前は「全然面白くない」のように「全然」の後には「……ない」がつくのが正しい使い方であった。

 「全然大丈夫です」なんてナンセンスだと思っていたが、数年前、帰省してきた息子が携帯電話で何度もこれを言っている。その内私も洗脳されて「全然大丈夫です」と言ってしまいそうになったが、ぐっとこらえて、昔ながらの使い方をかたくなに守り続けて今日に至っている。

 先日、知り合いに厄介なことを頼まれた時、「すんでのところで、『全然大丈夫です』」って引き受けてしまった、いや、引き受けてしまいそうになった? ああ、この暑いのに、ややこしや、ややこしやの日本語である。
 


交付金

2012年07月23日 | 生活・ニュース

 今年の12月2日(日)に実施する予定の第2回岩国検定へ向けて、実行委員会では今準備をとり進めている。前回との大きな違いは、受験者が参考とするテキストブックを出版しようとしていることである。しかしながら、そこには大きな問題があった。本を作るための資金である。民間の有志が集まっただけでは、力はあるが資金がない。受験料収入だけでは、本を作ることは出来ない。

 春先、悩んでいるとき、いい話を聞いた。「岩国市みんなの夢をはぐくむ交付金」と銘打って、市が営利を目的としない自主的な公益活動に対して交付金を交付することで、新しい公共の担い手の発掘及び育成並びに市民活動の活性化を図る制度を設けているという。早速5月末の提出期限に間に合わせて、必要書類を整えて申請しておいた。

 6月の末、市から連絡が入った。交付金を出すかどうかの審査をするので、プレゼンテーションをせよとのお達しであった。提出しておいた申請書に則り、事業名・団体の組織・事業目的・期待効果・年間活動費・スケジュールなどを簡潔にまとめなおした説明資料を携え、指定された7月11日に会員3人で出かけた。

 4つの団体が招聘されていた。4人の審査員を前にして、説明時間は僅かに5分間。その後、質疑応答が5分、計10分間のプレゼンテーションであった。あっという間にその時間は終わった。審査結果の発表は7月20日、連絡は郵便で来るという。

 21日の土曜日、朝から郵便配達が来るのを待っていた。午前中の便では来なかった。昼食を済ませてひと休みをした後、郵便受けを見に行くと、暑中見舞いのはがきの下に分厚い茶色の封筒が入っているのを見つけた。市役所からのものであった。いそいそと腋に抱えて家に入り、ゆっくりとハサミで開封する。

 「交付金交付決定通知書」と題して、市長印を押した書類が出てきた。見事、市の交付金を頂けることになった。申請した額に対して満額回答とはいかなかったが、これでカラー版のテキストブックを出版することができることになった。すぐに会員各位に知らせた。

 期待に応えられるテキストブックの作成・検定試験の準備に、弾みがついた。あとは会員が力を合わせ目標に向かってやるのみである。暑中とはいえ、会員にひと息つく暇はなさそうだ。 


古い奴

2012年07月20日 | 車・ペット

 6月の末、梅雨の豪雨が九州北部に襲来する前の天気のいい日、車で長崎・雲仙・阿蘇へ出かけた。1泊しての帰り道、高速道路をひた走った。福岡を過ぎ、関門海峡まであと5kmという辺りを走っていたとき、今まで聞いたこともないアラームが鳴りだした。パネルを見ると、冷却水温度のメーターの針が振り切っている。「危ないっ、エンジンが焼きつくかも」。

 速度を落として走り何とか「めかりSA」に入って止めた。その瞬間、前輪の両側に僅かに湯煙りがあがるのが見えた。ボンネットを開け、ペンライトで照らして見るが、暗くて漏れ個所が確認できない。家までまだ170kmある。何れにしても乗って帰ることは不可能だと判断し、契約している自動車保険会社に電話をした。

 地元・門司から車両運搬車が来てくれるという。搬送料は50kmまでは無料。それ以降は1km当たり600
円だという。背に腹は代えられない。何を言われても「それで結構です」と言うほかはない。30分経った午後8時半、車両運搬車が来てくれた。

 息子と同年輩の、明るい運転手であった。それから3時間、高速道路を走って真夜中に家に着いた。翌朝、毎度お馴染の修理屋に電話をすると引き取りに来た。午後、電話がかかってきた。「修理に7万円かかりますが、よろしいでしょうか?」。これまた「結構です、直して下さい」と言うしかない。乗り始めて15年もののBMW。最近とみに故障が増えてきている。

 昨年の4月にも、ラジエーターが破れて冷却水が漏れ、やはり修理屋さんに迎えに来てもらったことがある。都度新しい部品と取り換えているので、大体のところは更新されたように思っているが、これからまた故障しないという保証はない。

 こんな話を友人にすると「もう新しい車に買い変えた方がいいんじゃないか」と、にべもない。経済的な問題もあるが、それ以上に他人が言うほど簡単に買い替えが出来ないでいる。15年も乗っていると、車というよりは我が人生の良き相棒の感覚だ。私の過去の喜びや苦しみの全てを知ってくれている。

  「
古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます」という映画のセリフがあるが、そんなことはない。「古い奴こそ古いものを欲しがるもんでございます」の心境だ。どこを向いても新しいいい加減なものばかり。どこに古いものがございましょう。生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。鶴田浩二と似たようなセリフをつぶやきながら、今日も古いBMWを丁寧に洗車した。