写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

針金ホルン

2013年03月30日 | 木工・細工・DIY

 このところ立て続けに針金で襟飾りの針金自転車を作った。来訪した知人に「こんなものいる?」と言いながら作ったものを見せると、10人が10人「ちょうだい!」と言った。高価なものでもなく、その上形もいびつな手作りの飾りを喜んで受け取ってくれた。

 そんなことに味をしめて、少し趣の異なるものを作ってみることにした。針金で作った自転車の飾りはいかにしても男ものである。今度は女ものの何かをと思って作ってみることにした。まずはコーラスグループに入っている姉のためにホルンに挑戦した。大きな円形で面白い形が胸飾りにいいのではないかと考えたからである。

 ホルンとはカタツムリのような形状に巻かれた円錐状の金管楽器だ。ネットの画像でホルンを観察して紙にそれを写し取り、丁度よい大きさに形を決める。やおら針金とペンチを取り出して図面の通りに形を作っていくが、その前に、どこから始めれば一筆書きの要領で作り終えることが出来るかを考えておかなければいけない。これが結構難しい。

 自転車を作るより小さく曲げる個所が多いのでホルンを作る方が難しく、時間もかかる。曲げ始めて30分が経った。初めての作品にしてはまあ納得の品が出来た。黒っぽい服に裏側からピンで止めて薄眼で眺めてみると、宝石店で買った品物のように見えなくもない。一丁上がりだ。

 姉の所に持って行った。「わ~、すてき。ちょうだいね」と言ってその場で胸に飾った。なかなかいい。評判のいいことに気を良くしてホルンを2台作ってみたが、1台目ほどうまく作れない。1台目のものより、もっといいものを作ってみようと思い、少し形に凝ってみたのがいけなかったようだ。

 今2台のホルンもどきが机の上に転がっているが、「これでもいいよ」と言うもの好きな女性がいたらプレゼントしようと思い、日夜少しずつ形を整えて理想の形に近付けているが、他人が見たとき、これがカタツムリ、いやホルンにみえるかな~。


明と暗の春

2013年03月28日 | 生活・ニュース

 桜が爛漫と咲き、心が浮き浮きとするこの季節。新しい一歩を踏み出すニュースの多い中、毎日新聞の4コマ漫画「アサッテ君」を読んだ。東海林さだおが描く「アサッテ君」は、私の書くブログの数倍以上、とかくダジャレが多い。それでも毎朝ニヤッと苦笑しながら読んでいる。

 今朝(28日)のものはいつものダジャレはなく、石川啄木の歌の一節をアサッテ君が口ずさみながら花束を抱えて会社から帰ってくるものであった。「友がみな 我よりえらく 見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ」と、歌集「一握の砂」の中の一首である。「きょう、人事の発表があったみたいね」と奥さんはアサッテ君に背を向けて、夕飯の支度をしながら大きな反応を示すことなく軽く聞き流している。

 この歌は、啄木がいろいろあった後上京し、満24歳の時に謳ったものである。このころの啄木は、東京の新聞社で校正係として働いていた。中学時代の友人たちは、上級学校を卒業し、目的に向かって輝かしいコースを歩んでいた。一方、啄木は志を得ない境遇であった。そんなとき花を買ってきて妻と親しみ、淋しさを紛らわしていたようだ。

 今まさに春爛漫、サラリーマンにとっての春は心騒ぐときでもある。大きな人事異動や、昇進昇格が決まるときだ。関心が強いのは先輩や上司の人事であるが、とりわけ興味があるのは同期の者の人事であろう。「あいつはここへ異動したんだな」「彼は同期のトップを切って課長に昇進したのか」など、人事を眺めて感じるところは多かった。

 人事異動を見ていれば、おのずと自分の将来が透けて見えることもあった。「順調にいけば、やがてあそこに行くのかな」などと、捕らぬ狸の皮算用は何度となくやってみたが、今思うにどれも空振り。思わぬ外れくじばかり引いて歩いたような気がしている。

 引いたくじが外れていた日にゃあ、確かに友がみな我よりえらく 見えたっけ。「おれって、だめな奴だよな。いやいや、上も人を見る目がない奴ばかりだ」などとぼやきながら家路に着いたものだ。帰り道、駅前の花屋で、哀しみをこらえたような花なんぞを買って帰るようなことはついぞ1度もなかったが、啄木と同じ思いをしたことは何度あったことだろう。

 あれもこれもみんな、今は昔の出来ごと。今となっては「小さい、小さい」出来ごとに思える。人生ってそんなもんかもしれない。相良直美の歌じゃあないが「いいじゃないの今が良けりゃ」ということだろう。このように3月4月は、受験生の合格不合格、サラリーマンの昇進左遷など、明と暗が交錯する心穏やかならぬ季節ではある。


自費出版デビュー

2013年03月28日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 岩国エッセイサロンの設立初期のころからの会員であるtatunoko(T)さんが、このたび「日々のことを徒然に」と題して100編のエッセイを本にして自費出版した。サロンに入会以来6年半が経っている。この間、各種新聞のエッセイ欄に投稿を続け、累計掲載数がこのたび100編になったことを記念しての自費出版である。

 Tさんは新聞投稿を機にブログも始め、同じ仲間としても感心するくらい連日ブログの書き込みを続けている。散歩の途中で目にした草花、病院の待合室で見た人の様子、変わりゆく城下町の家並み、四季折々の自然の気配、帰省してくる孫娘さんへの愛おしいまなざしなど、エッセイのテーマは花鳥風月から人の世のことまで多岐にわたっている。それらを感性鋭く切り取って書き貯めたブログの総数は約2,200編余もある。

 エッセイ集に掲載されたものは、書いているブログの中でこれぞというものを選んで推敲を重ね、新聞に投稿し掲載されたものである。ブログに書き貯めたエッセイが多数あることも驚きだが、新聞に投稿しエッセイとしてあるレベル以上であることを認められて掲載されたものが100編に達したということも驚くべき業績である。

 このエッセイ集は、著作はもちろんのこと編集も装丁も何もかもすべてTさんがパソコン技術を駆使しての自作である。そんな貴重な1冊を頂き、陽のあたる部屋の椅子に座って読んでいると、心豊かにそして丁寧にものを見ながら充実した毎日を送っておられることがよく分かる。これからもますます健筆で、活躍されることを仲間と共に期待している。

 本は、26日より市内の書店で発売中とか。近々、新聞社の取材もあるという。装丁も美しいこのエッセイ集を、皆さんもぜひ手に取って読んでみてください。これで岩国エッセイサロンから3人目の自費出版エッセイストがデビューしたことになった。桜も咲き、ホンにめでたい春となった。


寒花見

2013年03月27日 | 季節・自然・植物

 1週間前に錦帯橋の桜の標準木の開花宣言が出たことはニュースで知っていた。数日前に、車で錦帯橋界隈をぐるりとひと回りしてみたが、咲いている木でもまだ1、2分咲きというところであった。 昨日3月26日。このところの暖かさでどのくらい開いたのだろうと思い、奥さんと2人弁当を買い込み、ござを抱えて錦帯橋に出かけてみた。

 午後1時に着いた。上河原には三々五々、シートを広げて弁当を食べている。ほど良い距離がちょうど保てるくらいの花見客である。出店の前のテーブルにはあまり客はいない。風はないが、朝から少し冷え込んでいた。ダウンのジャケットにマフラーを巻いて出かけたが、奥さんは手袋までしている。まるで雪まつりに出かけるような出で立ちに見える。

 桜は3分から4分咲きというところか。今週の土日あたりが見ごろで、大賑わいが予想される。食後、吉香公園の中を歩いて回った。公園の隅っこにある枝垂れ桜は満開に近い。ソメイヨシノと咲く時期が逆ではないのか。そんなことを話しながら散策する。

 山裾の清閑な住宅街に、高い生垣に囲まれた住居がある。広い庭に背の高い1本の大きな枝垂れ桜がひと際華やかに目に入る。岩国市内でも、こんなに大きな枝垂れ桜は他にはなかろうと思うほど立派である。足を止め、垣根越しにしばし見とれた。

 折り返して又公園に戻った。徴古館のある堀沿いの桜並木の通りに出たとき、無粋な光景が目に入った。長さ170mの直線の道路の両側に桜が植えられていて見通しの良い美しい景観が迫るものの、道の両側に真っ赤なプラスチックのコーンがズラッと並べてある。何も表示はしていないが、この季節桜見物の車の駐車禁止の意味があるのだろう。

 こんなものがあると写真を撮っても様にならない。もう少し気のきいた対策は取れないものか。毎年同じことを思う桜並木ではある。今日は朝から雨。桜の開花もひと休みか。「さくら さくら 錦帯橋の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂ひぞ出づる いざや いざや 見に行かん」。週末、また出かけてみたい。


忘れ物

2013年03月26日 | 岩国時遊塾

 開設したばかりの時遊塾の塾生は目下3名のグループのみ。2月の初めに入塾が目的ではなく、ただ単に雑談に来ただけの人達で、その後、時折まとまって訪ねて来てくれるようになった。私が勝手に力ずくで塾生として扱っているだけのことである。わが家に特別な用事はなく、ぶらり訪れた人はみんな塾生として扱うことにしている。

 そんな3名のグループに対して、2度目の来訪のときに雑談をしながら
針金自転車教室を開いた。初めてのことなので、そう簡単に格好良いものが作れるわけはない。3人3様、それなりのというか個性的なものを作り、笑いながら品評会をやって終えた。

 その翌日、グループの1人からメールが入ってきた。無理やり入れられた時遊塾の感想が書いてある。
 「
昨日、私は塾に忘れ物をしてきました」と書き出してある。部屋の中に、そんな忘れ物などなかったが……と思いながら読み進んだ。
 「
どこかに『うろこ』が落ちているのではないかと思います」とある。
 「あれっ? コンタクトレンズでも落として帰ったのかな?」と少し心配をしながら先を読む。
 
 「
お話を伺っているうちに目からうろこが落ちてしまいました。何十年間、仕事人間として生きてきた自分自身を振り返る貴重な時間を提供していただきました。仕事では手を抜かず自分の持てる全ての力を発揮することは当然なことだと思っていましたが、それだけではなく自分自身も人生を楽しむことの重要性・素晴らしさを教えていただきました」と過大な礼状となっている。

 メールが来た前日、私は3人との出会いについて感じたことをブログに書き、最後を次のような文章で締めくくっていた。
 「
好奇心をもって前向きに生きていこうと思えば、身の回りにやってみたいことは沢山転がっている。何ごとも気持ちが若くないと出来ないのではなく、何ごとにも挑戦していけば気持ちも若くなるというものだろう。3人のこれからの健闘を祈りたい」と。

 メールの最後にはこの一文を引用した後、次のようなコメントが書いてあった。
 「
仕事一筋に生きてきた老年期を迎えた若造(?)の3人ですが、これから迷いながら、ふらふら寄り道しながら今まで歩んでいた道とは違った寄り道を楽しんでいきたいと思っています」と、人生の楽園を目ざしての決意が述べられていた。

 3人に対して、私が定年になってからの10年間、模索しながら仲間を作り歩んできた道程なりを話したが、少しは参考になったり感じてもらうところがあったとすれば大変うれしい。自由となった時間、人それぞれ、自分に適した道を切り開いてゆき、後輩の参考となる新しい「時遊な道」を是非作ってもらいたいと願っている。今日は組長、いや塾長らしいいいことが書けた、かな?