写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

キャッチボール

2012年06月28日 | 生活・ニュース

 夕方の散歩に出かけた。折り返し点をユーターンしての帰り道、中学校のそばを通りかかった。誰もいないように見えたグラウンドの隅で、1人の少年が自転車から降りて立っていた。手にグローブと軟球を持っている。近付いた時、目と目が合った。「こんにちはっ」、はっきりとした気持ちのいい挨拶をしてきた。「こんにちは。1人でボール投げをするの?」「いや、友達が来ます」「友達が来るまでおじさんとやろうか」「はいっ」。なかなか素直な子だ。

 「君はこの中学校の生徒?」「はいっ」「野球をやっているの?」「はいっ」「どこを守っているの?」「ショートです」「じゃあ、肩が強いんだ。何年生?」「3年です」「それじゃあ、レギュラー?」「はいっ」。そんな会話をした後、キャッチボールをするために少年から距離を取っていく。「ピッチャーまではこれくらいでいいかな?」「はいっ」、という位置に立ってキャッチボールを開始した。

 グローブをはめた少年がキャッチャー役、素手の私がピッチャー役で始めた。少年は山なりのワンバウンドでボールを返してくれる。私は本格的に野球をやった経験はないが、ソフトボールではずいぶん遊んだ。「昔とった杵柄」で力一杯投げ込む。初めの10球くらいはボールが散ったが、徐々にストライクゾーンに投げられるようになった。球のスピードは年なりのまあそこそこ。それほど衰えてはいない。久しぶりに投げて見たが、ノーバウンドで直接少年のグローブに届いた。

 「友達はいつ来るの?」と聞くと「6時です」と言うが、時計はすでに6時を回っている。何球投げただろうか、額に汗が出始めた。5分間くらい投げたころに友達がやってきた。それを機にキャッチボールを終えた。「いい運動になったよ。ありがとう」と汗を拭きながらお礼を言うと「ありがとうございました」とはっきりとした口調で頭を下げる。いい子だ。別れぎわ「野球、がんばってね」とエールを送ると「ありがとうございます」とまた挨拶。

 同じ中学の遥か後輩の見も知らぬ少年との、ほんの短い時間のキャッチボールであったが、身体以上に熱い心のキャッチボールをしたように感じた。少年2人の姿を、何度も振り返りながら家に向かった。今朝起きると、背中にちょっと違和感がある。「年寄りの冷や水」って、なんでしたっけ? 


忘却とは…

2012年06月27日 | 旅・スポット・行事

 長崎から、右と思いきや今度は左にと交互に海を見ながら走ること1時間半、雲仙の温泉街に着いた。今宵の宿は、高速道路のSAで昼食を取ったときに、めったに出番のないスマホを使って予約しておいた。雲仙地獄のすぐそばに建っており、館内にいても硫黄の匂いがかすかに漂ってくる。うん、なかなかいい宿だ。

 4階のかど部屋に案内された。どちらの窓を開けて見ても目の前に地獄が広がっており、そこかしこから白い噴気が新緑を背景にゆっくりと立ち昇っているのが見える。「ここが、あの雲仙なんだなぁ」と、あのシーンを微かに思い出す。
雲仙とは、1300年前の奈良時代に、僧・行基によって温泉山満明寺が建立されたことに始まるといわれている。

 ひと風呂浴びる前に、地獄の遊歩道を散策してみることにした。噴気だけでなく、ある場所では熱い湯が小さな気泡と共に「プチプチ、ピチピチ」と音を立てながら湧き出していた。そばの立て札を見ると「雀地獄」と書いてある。まさにスズメのさえずりに似ていなくもなく、笑いを誘う。

 地獄の真ん中あたりまで進んだ時「真知子岩」と名付けられた大きな岩がある所に出た。「忘却とは 忘れ去ることなり。忘れ得ずして 忘却を誓う心の悲しさよ 菊田一夫」と彫られた石碑が建ててある。知る人ぞ知る、1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得し、その後映画化された「君の名は」のロケが、ここ雲仙地獄で行われた記念碑であった。

 当時は、私も子供だったのでストーリーは分からなかった、主題歌を聞いたり、父母に連れられて映画を見に行ったことは覚えている。雲仙地獄でのシーンは、スチール写真などでは何度も見たことがある。「あれがここだったのか」、漠然とした記憶の中をゆっくりと歩を進める。

 戦後の混乱の中での、ままならぬ恋愛ドラマだったと理解しているが、
番組の冒頭で流れる「忘却とは……」のナレーションだけは今も鮮明に覚えている。その意味するところは何か? 「いっそのこと忘れてしまいたい。忘れてしまったら、どんなに心が軽くなるだろう。だけど忘れられない」ということ。切ないドラマだったようだが、物忘れがひどくなった最近の私は、「記憶とは、覚えておくことなり。記憶出来ずして 記憶を誓う心の悲しさよ」か。


長崎は今日は晴れだった

2012年06月26日 | 旅・スポット・行事

 先週の金曜日のことである。朝起きて見ると、これぞ梅雨の中休みというのだろう、明るい青空であった。思えば今年は色々あってどこにも出かけていない。時計を見ると8時。「よしっ、行ってみよう。長崎へ」。30分もあれば旅支度は終わった。消防車が出動するまでの時間とは言わないが、早いスピードで支度を終えて家を出た。

 ナビを見ると長崎までは400km弱。無手勝流のドライブであるが、その日の宿泊地は雲仙と決めた。なぜ長崎・雲仙なのか? 独身時代に仲間と行ったことがあるが、前々からもう一度行ってみたいと思っていた場所である。見たいポイントはグラバー邸から眺める長崎の街と、湯煙り立つ雲仙地獄・普賢岳そして阿蘇である。

 ひたすら走ること5時間、無時に長崎に着いた。ナビが忠実にグラバー邸に導いてくれる。あんな急斜面に建っていたのかと再認識するほどの傾斜地に建っている。貿易商のグラバーが住んでいた住居で、日本最古・1863年に建築された木造洋風建築だという。趣ある邸の庭のベンチに座り、眼下に広がる長崎の街を堪能する。見物の後は、園内のカフェで水出しコーヒーでひと休みした後、長崎での次の目的地「眼鏡橋」に向かった。

 眼鏡橋とは、中島川という街の真ん中を流れる幅わずか20m足らずの川にかかっている橋である。1634年に造られた日本初の石造りアーチ橋で、国の重要文化財に指定されている。川面に映る2連の姿から「めがね橋」と呼ばれ親しまれてきた。川の両岸には遊歩道が設けられ、きれいに整備してあるが、残念ながら流れる水は清流とはいえない。しかし、橋自体は街に溶け込んでいて、石組の構造もよく分り風情ある石橋ではある。

 注文が一つある。せっかくの文化財だ。構造物の石橋に負けない清流をぜひ取り戻してほしい。これに比べるとわが郷土の錦帯橋が架かる錦川は名実ともに清流だ。流域住民の努力の賜物であろうが、改めて誇らしく感じた。時計を見るともう3時半。長崎を少しかじっただけでその夜の宿・雲仙に向けてハンドルを切った。


反射神経

2012年06月25日 | 生活・ニュース

 天気の良い日の午後、柳井にある園芸店に奥さんと車で出かけた。店内を見て回っているとき突然右目に、ピリッというかキリっというか、そんな感じの痛みが瞬間走った。30分も経ったころ、また同じようなことが起きた。家に戻るまでに、もう1、2度そんなことがあった。気になるので、家に帰り最近開業したばかりの近くの眼科医院に行ってみた。

 夕方5時半、待合室にはあたかも難民収容所のように多くの患者が所狭しと座っている。空いたところを見つけて待つこと40分、やっと呼び込まれた。4年ぶりの眼の検査である。まずはレンズをとっかえ引っかえしての視力検査。続いては眼圧検査である。

 装置に向かってあごを乗せる。「右目からやりますよ。空気がプシュッと出ますが、眼をつむらないでくださいね」と若い看護師が優しく言う。「はい、眼を大きく開けて~」「プシュッ」。その瞬間私の目は反射的にまばたいた。「あぁ~、眼をつむりましたね。もう1度やりますよ」「プシュッ」「また眼をつむりましたね。もう1度やりますが、まばたきしないように頑張ってくださいよ~」「プシュッ」。

 何度繰り返しても合格しない。終いには看護師さんが手で瞼を押し開けての検査で、やっと両目の眼圧検査が終わった。いい機会だと思って、眼底検査もやってもらった。検査後、先生の前に座って、目視検査。2、3本逆毛を抜いてもらう。「こんなことは時にあります」で、診察結果は、特に問題なし。炎症防止の目薬が出た程度で釈放。

 眼圧検査とは、目の異常を知る重要な手がかりの検査。色々な検査方法があるようだが、今回受けたのは空気圧によるもの。圧搾空気を吹きつけて、角膜のへこみ具合によって眼圧を測定する方法であった。何度思い返しても不可解なことであるが、眼球に向かって何かが飛び込もうとしたときには、誰でも反射的に眼をつむるであろう、なのに眼をつむるなとは……。固体ではなく、気体であっても同じことだ。

 眼をつむるなと言われても、人間の作りを変えない限り到底無理な話である。それとも私は他の人に比べて反射神経がよすぎるのか。そういえば餅まきで、地面に落ちた餅を誰よりも早く拾うことが多かったことを思い出している。少しさみしい気がしないでもない眼圧検査であった。


英語以前

2012年06月24日 | 生活・ニュース

 今朝(24日)の毎日新聞のコラムに、東京都の民間校長として中学校長を務めたことのある藤原和博さんが 「日本も英語を公用語にすべきか?」と題して、面白いいことを書いていた。

 話の要旨はこうだ。「英語が小学校で必須になってから、先生が戸惑うことが多くなっている。グローバルなビジネスでは英語が公用語となっており、社会の英語に対する要請は日増しに拡大している。ユニクロや楽天などでは、すでに英語を社内での公用語にしている。日本でもインドのように英語を社会全体として公用語化すべきだという議論もある。しかし大切なことは、『キミが話す英語は、キミが話す日本語を超えない』ということ。意見を聞かれた時、日本語で言えないことは英語でも言えない」と言っている。

 学生時代から英語が苦手だった私は、これを読んで思わず「そうだ!」といって膝を叩いた。中学・高校と大学受験のための英語の勉強は随分時間をかけてやってはきた。しかし、読むことはまあまあとしても、突然出会った外国人を目の前にしたとき、簡単な日常会話さえままならないのが現状である。

 いわんや会社勤めの時に、もし社内公用語が英語になっていたら、私はどんな会社員生活を過ごしていただろうかと思うと背筋が寒くなる。昼休み以外は極端に無口でおとなしく、いいところなしの社員であったことは間違いない。

 このコラムを読んで救われたのは最後の1行にある「キミが話す英語は、キミが話す日本語を超えない」というところ。いかに英語が堪能であっても、話していることに内容が伴っていないと、単なる饒舌でしかない。英語を上達させる以前に、日本語できちんと自分の意見が言えなければいけない。そのためには、日本語の多くの言葉を知っているとか、難しい熟語を知っているというだけでなく、しっかりとしたものの考え方が出来る教養を身につけていることが必須であろう。

 先生方は、学校で英語教育をしていくとき、限られた時間の配分に、こんなところで悩んでいるのかもしれない。それにしても、「英語を身につけるのは難しい」という印象のまま、私はずっと劣等感を抱いて生きてきた。最近は、母国語である日本語でさえ、言いたいことが的確に言えなくなってきている。あぶない危ない。