写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

フリーマーケット

2005年04月30日 | 旅・スポット・行事
 29日みどりの日、錦帯橋祭りがあった。前日と当日の二日間、河畔ではフリーマーケットが開催された。

 空いているときをと思い、ウイークデイである前日に行ってみた。昨年と同じ規模で多くの店が出ていた。

 古着・骨董品・使い古した大工道具・火縄銃や刀剣・陶器・端布・古時計・盆栽・装飾品・焼きそば・岩国寿司・たこ焼き・・・の店の数々。

 買う当てのものは別にない。見て歩いていると近くでテネシーワルツの歌がノスタルジックに気だるい音で聞こえてきた。

 その方へ近づいてみると、手回しの蓄音機がテントの下に10台ばかり置いてある。その中の1台に古いレコードが乗ってゆっくり回っていた。
  
 それを見ながら、年配の男がしきりに店主に何かを訊いている。1台が、4~7万円だと言うだみ声が聞こえた。

 隣の店を覗いてみた。ここでも白髪混じりの男が、座り込んで長い時間をかけて熱心に何かを手にとって見ている。

 「これ、1枚いくら?」「300円!」。店主も愛想はない。男は黙ってその場を立ち去って行った。

 近づいて見ると、使用済みの古く汚れたはがきの山であった。大正8年の日付で1銭5厘と書いてある。商売で使ったような文章が筆で書いてあった。

 私も、今日からダイレクトメールのはがきを大事に取っておこう。80年後には1枚50円のはがきが2万倍の、え~と100万円位になるかもしれないから。

 宝くじを買うよりは確実に儲かりそうだ。今日は良いことを覚えたぞ。いや待てよ。そのとき私はと・・・140と何歳か?だめだ。

 今日は今から、古家の押入れ・箪笥の底・天井裏を整理してみる気になった。何かお宝が出てくるかもしれないから。
   (写真は、錦帯橋河畔の「フリーマーケット」)

モッコウバラ

2005年04月29日 | 季節・自然・植物












 我が家の庭の入り口にある淡黄色のモッコウバラが、今まさに満開になろうとしている。

 5年前に妻が挿し木したものが、こんなに大きくなった。ホームセンターの半額セールで買ったトレリスに、しっかりと巻きついている。

 モッコウバラはつる性のばらで「木香バラ」とも書くが、淡黄色のものは木の香りは愚か、香るものは何もない。

 その上、お行儀が良いというか、育ちが良いというか、バラ特有の棘もない。バラらしくないバラと言えるかも知れない。

 春のバラシーズンに先駆けての一番乗りのバラである。大輪の華やかなバラとは違い、小さく質素ではあるが無数に咲き乱れる。

 自然界は、すべからく小さなものは群れたがる。群れることによって、大きなものに対抗しようとする。

 小でありながら群れないものもいる。この私がそうかもしれない。群れれば大勢に押し流される。孤高を保てば変人扱いされる。

 とかくこの世は・・・なんて言わずに、やはり群れて遊ぶ毎日。あっ、足のむれないテニスシューズを買いに行くんだったぞ。
   (写真は、我が家の「モッコウバラ」)

朧 月(おぼろづき)

2005年04月28日 | 季節・自然・植物
 先日あるブログに、4月24日のきれいな満月の写真を掲載している人がいた。
それから2日後、寝る前にハートリーの用を足しに外へ出た。明るい光にふと天を仰ぐと、いつもとは違う月明かりが見えた。

 はっきりとした真ん丸いお月さんのはずなのに、他の銀河系の知らない星雲のように、ぼんやりぼやけて浮いていた。そうだ、これが「朧月」であろう。辞書には「水蒸気に包まれて柔らかく霞んで見える春の夜の月」と書いてある。

 最近は、頭を高く上げて歩くことを忘れている。久しぶりにお月様とまともに対面した。「月も朧に白魚の 篝(かがり)も霞む春の空・・・」

 金と欲に加えて、因果のしがらみに翻弄される人々をリアルに描いた黙阿弥の「白浪物」の代表作のフレーズを思い出した。この夜も、まさに篝も霞みそうな春の空であった。ハートリーのお陰で、粋な宵を味わうことが出来たが、金と欲のしがらみからは私はまだ脱し切れていない。朧月が大きな金貨に見えた。
   (写真は、我が家を照らす「朧月」)

青いレモン

2005年04月27日 | 生活・ニュース
 戦後まだ十数年、あれは中学2年の時だった。一学年が10クラス、ひとクラスが50人という、すし詰めの大きな学校に通っていた。

 3kmの道を毎日歩いて通学した。夏休みを前にしたある日、我が家に一枚のはがきが送られてきた。

 「○月○日、○時に講堂の入り口に来てください」と書いてある。同じクラスにいた天然パーマの、少しおませな女の子からだった。

 お互い小柄で、ふたりの机は教室の前の方にあった。この年頃、私は女生徒と学校ではほとんど口を交わすことはなかった。

 そういうことに幼かった私は、指定された日に講堂へは行かなかった。3年生になる時、学校はふたつに分かれ、その女生徒とは別々になった。

 それから半世紀経った昨年、合同の同窓会が開催された。出席者名簿にその女性の名前が載っているのを確認して、私も出席した。

 見渡してみても、お目当ての人は顔を見ただけでは分からない。名札を頼りに探し歩き、小柄でおとなしそうな婦人にたどり着いた。

 私は自分の名札を指差し「覚えていますか?」と尋ねると、うつむき加減で恥ずかしそうな仕草をしながら、笑顔で頷いてくれた。

 あの時のことは避け、懐かしい昔話をして別れた。あの人も、きっと覚えていたに違いない。幼く青いレモンの頃の話である。 
  (写真は、熟れた「黄色いレモン」) 

花自慢

2005年04月26日 | 季節・自然・植物
 先日の午後、地区の集まりが集会所であった。幼なじみのYちゃんも来ていた。私よりひとつ年下で、目がぱっちりした可愛い娘だった。

 最近、遠くから時々姿を見ることはあったが、話す機会は無かった。集会が終わっての帰り道何十年かぶりに話をした。

 幼い頃の面影を残し、相変わらずの愛くるしい表情をしている。数年前に主人を亡くしたが、明るく元気に生きている。

 私は、我が家の満開になろうとしている花水木を見せて、木の大きさと、薄いピンク色の花の多さを自慢した。

 ところが、Yちゃんの家にも赤い花水木があるという。しかも我が家のものより木も大きく、花の数も多いという。

 私の自慢の鼻は、もろくも折れそうになった。「よし、じゃぁYちゃんちの花水木を見に行ってみよう。どちらが立派か比べてみよう」ということになった。

 自転車に乗って5分、Yちゃんの家に着いた。道路からは見えない家の陰に植えてある。犬の散歩の時には気がつかなかった。

 どう眺めてみても我が家のものより大きく、花の数も多い。植えた時期は15年くらい前で、ほぼ同じ時期に植えている。

 幼なじみとの花水木自慢に決着がついた。子供の頃、おもちゃなどの持ち物を自慢しあったことを思い出しながら「参りました」と言い、大きく笑って別れた。

 今これを書きながら出窓越に見る負けた花水木が、今までより一層可愛くきれいに見えた。負けても美しいものは美しい。
  (写真は、戦いに負けた「我が家の花水木」)