徳山へ所用で出かけた帰り道、急に思いついてちょっと周り道をしてみた。山陽本線の無人駅となっている島田駅の前に車を止めた。商店街のない田舎の駅でも、タクシーが3台も並んで客を待っている。待合室には女学生が2人、上りのプラットホームの椅子には年配の夫婦が1組座っている。
この駅には思い出があった。母の里は、この駅で降り、だらだら坂を歩いて1時間弱、山の中腹にある集落にあった。駅前の家並みを通り過ぎると島田川を渡る。民家は直ぐに途切れ、坂道を登り始める。登り切った所には大きな堤があり、いつも澄んだ水を蓄えていた。そこからは何もなく、ただ歩くだけ。途中2回くらい小休止して又歩くと、やっと母の里にたどり着いた。
当時はタクシーなどはなく、バスも通うようなところではない。自分の足で歩くしか手段はなかったが、こんな所でも、夏休みに行くことが大きな楽しみであった。いとこも大勢集まり、家の周りのあぜ道を走り回って遊んだ懐かしい場所である。
時は移り数年前、車で上ってみると、何もなかった道の両側は開発されて、大きな住宅団地になっている。昔の淋しかった山道とは全く様変わりをしている。子どもの頃、長い時間をかけて歩いていた坂道は、一体どのくらいの道のりだったのかを知りたくて、この度歩いてみることにした。
曇り空のもと、ペットボトルを片手に時計を確認して駅を出発した。駅前に1軒あった食堂は跡形もない。橋のたもとにあった食料品店は今も細々ではあるが健在だ。橋は広くて立派なものに造り直されている。周りの家も新しいものが多い。見覚えのある家が1、2軒ばかり確認できた。
初めの急な坂を上ると、あの堤があった。カモが7羽遊んでいた。ここは何も変わっていない。散歩のときと同じ早足で歩いてみたら、駅を出て35分後に、祖父母の家があった所にたどり着いた。幼い子供の足で、休憩しながら1時間弱かかったことはうなづける。小休止して1時間半かけて往復した。長年疑問に感じていたことを確認することが出来たと共に、幼き日の夏休みに母と歩いているような温もりを感じた。
74歳の女性が、新聞に投稿したエッセイを読んだ。昨年末に転倒して骨折した夫を自宅で介護していたが、3週間後に入院した。大晦日に外泊許可をもらって帰って来たときの話である。「今度のことでは、ほんとに世話になった。ありがとう。これまで、お前のことを『おい』とか『おまえ』とか呼んできたけど、来年から言わないことにするよ」と夫が言ったのを聞いて嬉しかったという。
ある日、見舞いに行っての帰り道、ふいに鼻の奥がツーンとした。夫が「お前」と呼べる女性は、この世の中で私だけ。私も「お前」と呼ばれるのは夫からだけ。家に帰ると窓から病院が正面に見える。その一室にいる夫に呼びかけた。「あなた、やっぱり『おまえ』でいいよ」と、書いている。
う~ん、ご主人はそれからは何と呼ぼうとしたのだろう。「あなた」だろうか、それとも名前で呼ぶのだろうか。名前でも「さん」は付けるのだろうか。「おまえ」と呼ばれていた奥さんの気持ちはよく分る。長年、身体に染みついた愛情のある快い響きだったからに違いない。
男が妻や愛する人を呼ぶとき、どんな呼び方をしているのだろうか。ここで古い歌の文句を思い出してみた。まずはディック・ミネの「二人は若い」。「あなたと 呼べば あなた と答える 山の こだまの 嬉しさ よ あなた なんだい そらは青空 二人は若い」。2番、3番の歌詞では「ちょいと」と「あのね」と呼んでいる。この若い2人は、恋人どうしだろう。
フランク永井の「おまえに」では「おまえのほかに誰もない そばにいてくれるだけでいい」と歌い、題名通り「おまえ」と呼んでいる。この2人には色々事情がありそうで、駈け落ちでもしている仲なのか。続いては牧村三枝子の「みちづれ」。 「水にただよう 浮草に おなじさだめと 指をさす 言葉少なに 目をうるませて 俺を見つめて うなずくおまえ きめた きめた おまえと みちづれに」。まだ一緒になれるほどの稼ぎはない。いつか実のなる日を夢見て頑張っている2人の話なのか。この2曲はいずれも「おまえ」と呼んでいる。
さて、興味はないでしょうが我が家の話である。お客さんの前では、「さん」を付けずに名前で呼んでいる。2人だけのときには「お~い」か「おまえ」、時に「さん」抜きで名前を呼んでいる。いつか言ってみよう、「これからはお前のことを感謝をこめて『○○さん』と名前で呼ぶことにする」と。いやいや、感謝の気持ちは呼び方の問題ではなく、呼ぶときに優しく心からの感謝の気持ちを込めさえすればどんな呼び方でもいいのでは? そう思いながら同じさだめの奥さんに「お~い、お茶を淹れてく・だ・さ・い・ませぬか」などと、舌をもつれさせながら言ってしまった。
岩国検定実行委員会は、今年11月30日(日)に、第3回岩国検定を実施することで諸準備を始めている。過去2回実施してきたので、そのやり方を踏襲すれば問題なく実施できるが、出題する50問の問題だけは、毎回会員が知恵を絞って納得のいくものを作成しなければならない。
問題は一昨年、第2回岩国検定を実施する前に出版した「いわくに通になろう」というテキストから出題することを基本としているが、それ以外のことでも、興味ある話題が見つかれば出題の対象にしている。そんなこともあり、テキストも年を追って改訂出版したいところであるが、いろいろ事情があって今回は改訂版を出すことにはしていない。
それならば、個人的に改訂版を作ってみようと思い、作成に挑戦してみた。記載内容で間違っていた個所の訂正は当然であるが、末尾に第1回に続き第2回の問題を掲載することにした。A5版で19ページある。プリントアウトしたものを、手持ちのテキストブックの表紙を取り外し、末尾に糊付けして表紙を復旧させれば完成だ。
糊が乾いたあと手に取ってみると、厚みが増した分重厚に見える。こんなことをしてみようと思ったきっかけは、会員と第3回の問題を作成する会議の席で、過去どんな問題を出したかを確認することがある。そんなとき、この改訂版を持っていれば、ただちにそれを確認できるという、ちょっと便利な1冊となるからである。
さて次回の定例会のとき、この秘密兵器をもって出席してみよう。会員の反応はいかに。「たかが第2回の問題を末尾に貼り付けただけじゃないか」って? いや、全くもってその通り。こんなささやかなことが嬉しいこの頃なんです。春なんですかねえ。そういえば、庭の枝垂れ梅もつぼみを膨らませ始めました。第3回の岩国検定も、そろり立ち上がり始めたところです。
定年退職後、長い間空けていた家に戻ってきた。家を建てた直後に転勤したため、道路に面した所にはアルミ製のフェンスを設置しているが、裏側の隣地に面した所は、低いコンクリート製のフェンスを設けるだけにしていた。
家の周りには植木もなく、なんとも殺風景な佇まいである。奥さんが早速園芸店を駆け廻って苗木を買ってきて、お気に入りの個所に植え込みを始めた。ハナミズキ、ヤマボウシ、オリーブ、オレンジ、レモン、アーモンドなどの木を、庭いっぱいに植えた。隣地との境には、70cm置きに何十本ものカイヅカの幼木を植えた。
それから時は巡り、十数年が経った。気がつくとカイヅカは、何一つ面倒をみていないにもかかわらず大きく成長し、高いものは2.5m以上にまで伸びている。外側からは家が見通せないほどよく茂り、丸く膨らんでいる。木の列を横から眺めてみると、膨らんだ枝が隣地にはみ出している所もある。
これではいけない、何とかしなければ。以前も、これに気付いて剪定用の手ばさみで、チョキチョキやったことがあったが、そのころに比べると、とてもじゃないが、そんなことで解決しそうもないほどに茂っている。ここは設備投資をして機械に頼るしかない。インターネットで調べてみると、ノコギリ状でジョキジョキする「剪定用ヘッジトリマー」というものが出てきた。ヘッジ」とは「hedge」と書き「生垣」のことである。
早速ホームセンターに走り買って帰った。所望の高さに水平に糸を張り、脚立を立ててカイヅカを刈っていると、散髪屋のおやじさんになったような爽快な気分になった。簡単に刈り上げが出来るばかりか、直径が1cmくらいの枝なら切り落とすことが出来る。1時間余り作業をすると、デコボコだったカイズカの生垣の頂は、きれいな一直線になり、外から見ると、家まできれいになったように見える。
ヘッジトリマーの威力に驚くとともに、ヘッジトリマーのとりこになってしまった。かといって、我が家には差し当たり刈るようなものはもうない。とあれば、他所さんの木を刈って歩くしかない。早速、名刺に「生垣剪定業」という肩書を書きこんでみた。あとは看板を掲げて仕事が舞い込むんを待つだけとなっている。
最近テレビのニュースを見ていて、しかるべき立場の公人が、自分が発言したことを撤回する場面が多いことが気になっている。発言内容を撤回する記者会見では、決まって「誤解を生ずるような発言であったので撤回いたします」などと言う。つい先日には、衛藤晟一首相補佐官が、安倍首相の靖国神社参拝に対する米政府の「失望」声明を批判した自身の発言を「個人的な見解であった」と言い訳して撤回した。
これに対して私はふたつの問題意識を持っている。一つは、「誤解の生ずるような発言」というところである。公人が発言するときに、誤解を生じないような言い方をすることはもちろんであり、最近の撤回会見をする公人も、誤解を生ずるような発言はしていない。衛藤補佐官は、間違った解釈などできないほど分かりやすい発言をしていた。
「誤解」とは何か。事実や言葉などを、知識や能力が足りないために間違った解釈をしてしまうこと、とある。衛藤補佐官は、誤解を生じるような言い方をしたのではなく、現状認識が乏しいため不適切で正しくない内容の話をしただけである。だから撤回をしなければならないはめになった。
ふたつ目は、「個人的な見解であった。撤回してお詫びするが、公人として相変わらず現職に留まる」というところである。発言した本人が表現能力が至らなくて誤解を生じさせたのであれば許されてもいいが、信念としての考えから発言したものであれば、いくら発言を撤回して謝罪しても、信念が変わらない限りその人が公人として組織を動かして行けば、組織はその信念に影響されるに違いない。
先のNHK会長の失言は、この点で大きく懸念される。撤回・謝罪だけでなく、中立報道を旨とする放送局の長としては辞任が当然であろう。ある人物が公職に就く場合、その人の政治的な考え方や歴史認識がその組織に合致していなければその組織に入り込んではいけない。例え入ったとしても、組織と大きく乖離するような個人的な見解を表に出さない努力をしなければ、その組織全体がおかしくなってしまう。
全てのことに精通した人間はいないが、公人とあれば、一般人が居酒屋で一杯やるときに話すような個人的な冗談混じりの発言は通用しない。関係国の失言を待っている国が周辺にないとも限らない。「その国は、日本の敵かい?」「いや、撤回だ~」。