写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

問題解決の手法

2021年01月31日 | 生活・ニュース

 「今日の予定は何ですか?」と朝のテレビニュースを見終わったとき、奥さんが聞いてきた。「別に、特に予定はない」というと、「それなら、今日は久しぶりにシフォンケーキを作ってみるわ」と言って、器具類を取り出して準備を始める。

 間もなくすると、ガラガラガラと器械で何かを混ぜている音がし始めた。その時「あら、動かなくなった」と言う。20年前に買った電動のミキサーが、卵白の泡立てをしている最中に何かの拍子に急に動かなくなったようである。

 仕方なく手でかき混ぜて何とか泡立てを終えている。その間、私はというと、すぐさまドライバーを取り出してケーシングを開けて、修理に取りかかる。

 何段階にも回転数を変更できるようになっているため、内部にはいろいろな電子部品が組み込まれている。さてどうするか。現役時代に習った問題が起きた時の解決手法を思い出す。

 まずは①現状を分析し問題の認識。②原因の調査・究明。③対策の立案・実行。④結果の評価。以上を実施する。

 
①問題は、ミキサーが動かないこと。②原因は何か。これを見つけるのが難しい。電気製品が動かなくなった時の第一歩は、コンセントにきちんと繫がっているか、スイッチが入っているかの確認が第一である。次は、配線のどこかが切れていないかを、アンペアメーターで調べているとき、ふと見たスイッチ部の細い配線のハンダが外れているのを見つけた。原因は直ぐに突き止めることが出来た。

 ③
対策は、ハンダ付けをして復旧する。④結果は、電源を入れると快調に回転することを確認して、問題は解決しミキサーは蘇った。
 
 奥さんから「買い替えれば4000円くらいはするのに、お父さんのおかげで助かったわ」と言われ「半分の2000円をくれないか」には即刻拒否された。ご褒美に、午後のティータイムには奥さん手作りの、シフォンケーキを食べさせてもらえることになっている。私の苦労の代償はこの程度のものである。


コロナか

2021年01月29日 | 生活・ニュース

 朝食後、新聞を読んでいるとき、テレビのワイドショーを見ていた奥さんが、「これって、どういう意味なの?」と聞いてきた。画面を見ると「コロナ禍の避難所の在り方」と題して、有識者が何か話している。

 奥さんの疑問は「コロナ禍を避けるために避難所が設けられていて、その在り方が紹介されている」と解釈したようで、そんなものが設置されているのかというものであった。

 そんな避難所がある訳はない。「コロナ禍の避難所の在り方」と書いてあるのを見て誤解を招く表現であることに気がついた。なんとなくわかる表現であるが、奥さんのように誤解する人はいるに違いない。ではどういう言い方をすればいいのか。

 伝えたいことは「コロナ禍の下での避難所の……」という意味である。正確を期して「コロナ禍下での……」ではくど過ぎるので「コロナ下での……」くらいでどうだろう。こう書けば「コロナという災いから逃れる避難所」ではなく「コロナという災いの下での避難所」と解することが出来る。

 「禍」が「下(か)」(~のもと)という意味で使われているのが誤解の元である。「戦時下」とか「炎天下」の「下」と同じで、たまたまどちらも同じ「か」という音なので、「コロナ禍」を「コロナ下」のつもりで使っているのかもしれない。

 「コロナ禍で就活する学生」「コロナ禍の結婚式」と書けば「コロナに罹っている学生の就活」、「コロナにかかっているカップルの結婚式」と解釈されかねない。ここは、最低限「コロナ下で就活する学生」「コロナ下での結婚式」と書いてほしい。

 権力をにぎって思うままに振る舞う奥さんのことを、よく「かかあ天下」と言うではないか。これこそ正確には「かかあ天禍」と書きたいと思っているがどうだろう。


ケータイがない頃

2021年01月26日 | 生活・ニュース

 40歳のころ、工場に新設するプラントの基本設計をするために、半年間東京の本社で仕事をしたことがあった。3食付きの三鷹にある寮で過ごしたが、休みの日にはお上りさんよろしく、目ぼしいところを巡り歩いた。

 ある日、高校で一緒だったが東京で仕事をしている友達と、新宿で会う約束を会社の電話でした。「おい、どこで会おうか?」というと「そうだな、新宿駅の西口、改札口を出た所にしよう」と答えてくれた。

 その日約束の時間より10分早く電車で新宿駅に行き、西口の改札口を出た。ところが、西口のロビーは小学校の運動場くらい広いし行きかう人も多い。しかも大きな四角いコンクリートの柱が10m間隔に沢山立っている。岩国駅で待ち合わせるのとは大きな違いがあった。

 はてさて、どこで待とうかと考えた後、改札口に背を向けて柱に寄りかかって待つことにした。ところが待つこと30分、ときどき改札口の方を振り返って見ていたが、約束の時間はとうに過ぎているのにやってこない。やおら、柱から離れて改札口の方に歩き出した時、柱の反対側から「おい、茅野」と呼ぶ声が聞こえた。

 何ということはない。お互いが長い時間、同じ大きな柱に反対方向を向いて寄りかかっていたことが分かり、「お前が悪い」「いや、少しくらい歩き回らなかったお前も悪い」と言いあった思い出がある。

 各人がケータイを持っている今時であれば、「1時に、新宿駅で会おう」と言っておくだけできちんと会うことが出来る世の中になっている。家を出た後で何かの拍子で遅れるようなことになっても、的確に伝えることもできる。

 便利になっているので、ハプニングは起きない。無駄のない時間、無駄のない人生かもしれないが、小説よりも奇な面白い事実は生まれない。そうは言いつつ、スマホに少しだけお世話になっている日常でも、これはこれで奇な事実は結構あるようだ。

 

 

 

 


地域の絆

2021年01月25日 | 生活・ニュース

 つい先日のことである。近くに住んでいる幼馴染の女性が通りかかった。庭でお茶を飲みながら久しぶりに話をした。「余り会うこともないけれど、近所の人はみんな元気でやっていますか?」と聞いてみた。近所の人と言っても、自治会で同じ班・33世帯の人をイメージして聞いてみた。

 驚いたことに、私が知らない内に2人が亡くなっていた。かつては、班長さんが「訃報」と書いた紙をポストに入れて知らせてくれていた。それが、どんな事情があるの知らないが、訃報として回ってこない。当事者が他人に知らせたくないからであろう。

 2人の家はいずれも、我が家から100m足らずのところにある。昔はこんなことはなかった。葬式も各人の家で執り行っていたころの話ではあるが、班内の人はみんな顔見知りの人ばかりであった。しかし、今は違う。新築して転入してきた人や代替わりした家も増えていて、顔も知らない人もいる。

 そうはいっても、ついこの間まで出会えば挨拶くらいはしていた人が亡くなったというのに、知らないまま過ごしているというのは如何なものだろう。亡くなってさえ、ごく近所の人に一言の連絡もないほど地域の絆は細ってしまっていることに唖然としている。

 都会のマンションの住民は全く孤立していて、隣にどんな人が住んでいるかさえ知らないと言われているが、こんな田舎でも人間関係は希薄になってきている。希薄を嫌うのではなく、逆に、濃密な付き合いを嫌う世相がある。そんな状態でも、日常生活には全く支障をきたさないからであろう。

 地域が果たしていた役割を、今やサービス会社が果たすようになっている。しかし、肝心な心の繋がりだけは、近くに住む地域の人しか保てないはずである。「遠くの親戚より近くの他人」というではないか。これだけは大事にしなければいけないが、田舎の都会化は確実に進んでいる。

 


年中行事

2021年01月23日 | 生活・ニュース

 定年退職後20年、年金生活とはいえこの季節、決して欠かすことのできない年中行事がある。それは確定申告である。昨日(21日)、今年の確定申告書が郵送されてきた。

 税務署は、送ってくる書類の中で「e-Tax」という電子申告を利用することを推奨している。しかしながら私は毎年、手書きしたものを税務署に提出するやり方をしている。パソコンを持っているので、e-Taxを利用しようと思って過去何度か挑戦してみた。 使い方をネットで調べてみるも、事前に準備すべき手続きが分かりにくくて、かたくなに手書きした申告書を持参している。

 記入する数字は年毎少しは変わるが、ほとんど似たような数字である。今年は「課税される所得金額」や「課税額」の計算式が昨年とは少し変わってはいるが、課税額としては昨年とほぼ同じくらいとなり、少しばかりが小遣いとして還付される結果となった。

 午後1番、書き終えたばかりの申告書をもって税務署に向かった。2、3人が書類をもらいに来ているだけで閑散としている。申告書の受付の準備は、コロナ対策を初めとして万端整えてある。持参した書類の控えに「受付」の判を押してもらった後「何かあれば連絡します」という声を聞きながら税務署を出た。

 「先んずれば税務署を制す」。早く済ませれば時間待ちすることもなく、還付金も早く戻ってくる。それがどうしたと言われそうだが、昨日は確定申告書を作ることと、税務署に持参することが、私の「教養」(今日の用事)と「教育」(今日行く所)にかかる大切な「年中行事」の1日であった。