☆・。.・☆写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 愛犬のハートリーと共に瀬戸内の岩国から…… 茅野 友

除夜の鐘

2010年12月31日 | 生活・ニュース

 2010年も何とか生きながらえて今日は大晦日。時間も残すところあと8時間となった。物心ついて以来、何十回も繰り返してきた大晦日の過ごし方は、基本的に子供のころと大して変りはない。
 夕方、早めに風呂に入り、1年の垢を日頃になく念入りに洗い落とす。後は年越しそばをいただき、テレビで繰り広げられる年末恒例のNHK紅白歌合戦を正座して見るでもなく、バックグラウンドミュージック代わりに聞きながら、近年はパソコンを相手に年の区切りの仕事をしながら過ごしている。
 夜回りの拍子木の乾いた音が遠のいたころ、ゆく年くる年が始まる。雪の深々と降る山寺から除夜の鐘が聞こえ新年を迎える。除夜の鐘といえば108回。108回の由来を調べてみた。
 いろいろ説はあるようだが、まずは煩悩の数を表すという説。眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(臭覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識)の六根は、人間の認識の根幹である。六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表す。これらの煩悩を祓うために108回鐘を撞くという。
 別に四苦八苦説というものもある。四苦八苦を取り払うために、4×9+8×9=108回撞くという。面白い数字合わせだと感心する。
 鐘の撞き方は、108回のうち107回は旧年(12月31日)のうちに撞き、残りの1回を新年(1月1日)に撞く。時間の調整が難しそうだ。
 ゆく年を少し振り返った後、来る年に願いを込め、今年は108の意味を噛みしめながら新年を迎える。そろそろ風呂も沸いたようだ。
  (写真は、うっすら雪化粧の「大晦日の朝」)

 

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6冊目

2010年12月30日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 2004年の11月にブログを始めた。以来6年、毎年250編~300編の短いエッセイらしきものを書いてきた。初めの3年間のものは、各1年分を1冊のエッセイ集としてまとめ、計3冊を外注し自費出版してきた。本1冊の大きさはB6版で350ページある。
 自分が書いたものを、読んでみたくなることが時々ある。「あのころ、どんなことを考えていたのかな」などと思い読み返す。「ああ、こんなにいいことを書いている」と、書いた当時のことを忘れているものの、自画自賛したくなる時がたまにある。そのためとは言わないが、書いたエッセイをパソコンの中に保存しておくだけでなく、いつでも気安く開いて読める本の形にしておくことは、自分の足跡を手軽に振り返ることが出来るいい道具だと思っている。 
 後半の3年間のものも、自費出版しようかすまいか迷ったが、出費もかさむため断念した。その代わり、パソコンとプリンターを駆使して、自分のための貴重なものとして手作りし、昨年までの2年間分はすでに2冊の本にしている。
 そして今日は晦日。ブログ生活の6年目が終わろうとしている。6冊目のものを今日仕上げた。タイトルは「投げた賽」。ページ数は250ページ。例年のものに比べるとかなり薄い。年初めに、奥さんの入退院があった。年間を通し、岩国検定の準備でエッセイ三昧とはいかなかった。その結果が過去6年間で最も薄い本となった。
 毎回、本のタイトルを決めるには、あるルールを採用している。その年の最大関心ごとに関係した言葉から選ぶことにしている。今年は何と言っても「岩国検定」であった。12人の仲間と「やってみよう」と決めたのは1月の末。「賽は投げられた」と思った。いや、「賽は投げられた」という受け身な気持ちではなく、自分の意思で「賽を投げた」と思った。6冊目のタイトルはその気持ちを表すものとして「投げた賽」に決めた。
 晦日の晩、この1年を振り返りながら、たった1冊の「投げた賽」を今読み返している。

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年神様

2010年12月29日 | 旅・スポット・行事

 「平安時代の昔、お正月は夏のお盆のように死者や先祖の御魂が戻ってくる日であり、それを祭る行事だった。同時に、その年の豊作や健康をもたらす『年神様』を迎える行事でもあった」

 「年神様」とは年に1度天から降リてきて、人間に新たな生命力である「年齢」を与えてくれる存在。昔の人々にとって、無事にひとつ「年を取る」ことは、とてもおめでたいことであった。

 日本人にとってお正月は、昨年までの運気をリセットし、年神様から新たな力を授かり、五穀豊穣や良運を祈る大切な行事。お正月のさまざまなしきたりは、新しい年神様をお迎えする準備である。

 門松、注連縄などの飾りはもちろん、鏡餅やおせちといったお正月ならではの料理も年神様のために用意する物。神に捧げ、霊力が宿った食物を家族で食べることにより、新たな1年を幸運で元気に生きるエネルギーがもらえると信じられてきた。

 「日本の伝統行事の多くが忘れ去られる中、『新年を良い年に』というお正月の心は、時代を超えて残るもの。各家庭のやリ方で、神様と自然の恵みに感謝し、家族の健康を祈るしきたりを伝えていくといいですね」と今朝の新聞で民俗学者の新谷さんが説明していた。
 
 長年生きてきたが
「年神様」という言葉を初めて知った。今日までお正月とは、単に新しい年を迎え、1年の安泰を神仏に願う行事だと理解していた。「年神様」が天から降リてきて、新たな生命力である「年齢」を与えてくれる行事だなんて思ってもいなかった。
 来年の元旦は、今までとは違って年齢はただ単にとるものではなく、新たな生命力である「年齢」を「年神様」から与えて頂くと思いながら拍手を打ってみたい。
 弱い陽の差す午後、そんなことを考えながら神棚から宮形を下ろし、1年の埃を叩いてきれいにした。明日は晦日。今年もいよいよ押し詰まった。 

 

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グローバル

2010年12月22日 | 生活・ニュース

 我が家にはキャノンのデジカメが3台ある。10年も前に初期のものを買ったが、シャッターを押して撮影されるまでの時間が長いので、シャッターチャンスを失うことが多く買い替えた。
 2台目のものは、コンパクトで写りもよく、どこにでも持ち歩いて愛用していた。ある日、錦帯橋の近くで、かつての同僚とばったり会って話しこんだ後、置き忘れて失くしてしまった。警察には届けたが、数日たっても出てこないので、最新のものを買いに行った。
 1週間後、拾い主から電話があり、無事に手元に戻ってきた。以来、それは奥さんのデジカメということにしていた。ところが先日、奥さんがある会合に持っていこうとした時、電池が切れているという。充電しようとしたが、今度は充電器が見当たらない。デジカメの機種ごとに電池も充電器も型式が異なるので、私のものを流用することはできない。
 いつか家じゅうの小物を整理した時に捨てたのかもしれないという。そんな時には、インターネットのお世話になるしかない。メーカー純正品ではないが、安く買うことができる。行き当たった商社に充電器を発注した。代表者は中国人だった。翌日、郵便局から代金1,300円、送料は300円を振り込んでおいた。 
 「なかなか送って来ないねぇ」と言いながら待つこと1週間。見慣れぬ切手が貼ってある小さな小包が届いた。よく見ると「香港$20」「香港$10」と書いた切手が3枚貼ってある。注文した製品は、なんと航空便で香港から届けられた。
 梱包を解き、早速充電してみると、ちゃんと機能した。「made in china」と書いてあるが特に問題はない。過去の購入者からの評価も問題のない商社であったので発注してみたが、今やこんな少額の品物まで世界から航空便で調達する時代になっている。とはいえ、値が張るものは海外から調達するほどの勇気はまだない。
 

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突 破

2010年12月21日 | 車・ペット

 あれは半年前だったろうか。近くにある医療センターの駐車場で、乗用車が高さが十数cmの車止めと、幅が30㎝くらいの側溝と、格子状のスチールフェンスを突ききって、高さが1.5m・幅が3mの川に落下したことがあった。
 車が落ちた状況は見ていないが、散歩の途中にのぞいてみると、スチールフェンスが幅5mにわたってなぎ倒されていた。かなりの勢いで突進したに違いないと感じた。
 そして一昨日のことである。ハートリーを連れて散歩していると、前回と場所は少し離れているが、同じ列のフェンスがまたもや大きくなぎ倒されている。川をのぞいてみると、向こう岸の石垣には、小さく割れた窓ガラスの破片が一か所に盛って放置されていた。今年になって2度目の同じような事故である。
 新聞やテレビのニュースでは、立体駐車場で運転を誤り、高所から壁を突き破って地上に落下する事故は何度も聞いたことがある。幸い、この医療センターの駐車場では、高さが1.5mということで大きな事故にはなっていないかもしれないが、車の損傷は大きかったように思える。
 果たしてどんな運転ミスがあったのだろう。よくあるパターンは、止まるときにブレーキを踏む積りがアクセルを踏んでしまったことである。それにしても、どんなタイミングでそんな操作をするのか、考えてみても想像がつかない。
 MT車ではこんなことはあまりない。AT車でよくある事故だという。人間工学的に考えて、右足1本で走る・停まるのすべての操作ができるAT車に盲点はないのか。この種の事故のニュースが多い割には、原因と対策の話を聞くことはない。
 単に「高齢の運転者の不注意」とか「運転ミス」で片付けず、もう一歩踏み込んだ話が聞きたいものである。全て設備で対策を講じるということは難しかろうが、事故を起こした運転者の経験談くらいは聞いてみたい。

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