会津若松市内に入り、会津若松城のお堀の横を走っています。
お堀の水は猪苗代湖から引かれた水で、用水路完成までに200年以上かかったとか。
お城の駐車場につくと、目の前にガイドさんから聞いていた「什の掟」です。
この「什」で、子供たちに会津武士の心構えを身につけさせたのだそうです。
10歳になると、白虎隊の学び舎でもあった「日新館」で学問や武道に励みます。
地元では鶴ヶ城、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多いそうです。
案内板には、初代の葦名(あしな)家から歴代城主の家紋が載せられています。
葦名家(1384年)→伊達家→蒲生家→上杉家→蒲生家→加藤家→保科家→松平家。
コロナ禍による緊急事態宣言も解除され、修学旅行の学生で賑やかです。
お土産屋さんも一安心、刀のお土産を見ると自分の修学旅行を思い出します。
案内板から椿橋、太鼓門をとおり石垣を回り込むと「武者走り」があります。
画像は片方の階段ですが、手前にも階段があり、珍しいV字型の武者走りです。
若松城の天守の前に整列して、思い出つくりの記念写真です。
今の5層の天守は1965年に鉄筋コンクリート造で再建されたものだそうです。
かってを忍ぶ石垣は、自然石を組み合わせた「野面(のづら)積み」、見事です。
見たかったV字型の武者走りと野面積み石垣、そして赤瓦を再現した天守閣です。
赤瓦は福島の冬対策用で、瓦の表面に塗る釉薬に工夫がされているのだそうです。
江戸時代の初期に試作され、幕末には城のほとんどの屋根に用いられていたとか。
♪春高楼の花の園・・♪、土井晩翠直筆で「荒城の月」の歌詞が刻まれています。
50年ほど前に訪れた武田市の岡城で滝廉太郎の銅像を見たのを思い出しました。
戊辰戦争敗戦後、城下の茶人の森川善兵衛が麟閣を自宅へ移して守ったのです。
森川家は120年にわたり麟閣を保全し、2000年に本丸内に移築したそうです。
天守閣の5層からは飯森山が良く見え、山からもお城は見えるそうです。
士中二番隊は空腹と寒さの中、新政府軍の射撃を浴び飯森山に避難しました。
山から見た城下町は煙がたちこめ、隊士らは「落城」と勘違いしたようです。
もはやこれまでと思ったのでしょう、悲しくも自刃が決行されたのです。
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