私は少し変わっている。私を知っている人の多くはうなずくはずだ。自分でもそう思う。今もそうだが子供の頃は昆虫が大好きだった。図鑑をみていれば時間がたつのを忘れた。小学3年生のとき理科でモンシロチョウの幼虫のことを教わり、さっそくキャベツ畑に行って青虫を採ってきて、飼育を始めた。しばらくたって青虫は蛹になるために紙箱の中をうろうろするようになった。私は青虫がどう動くだろうかと思い、箱のふたを開けた。すると青虫は箱から出て、壁を伝い移動を始めた。私はその軌跡を記録しておこうと、鉛筆で線を引いた。数日後我が家の壁には私の引いたたくさんの鉛筆の線が残った。
どういう訳か大人の皺が好きだった。目尻の皺など実にかっこいいと思った。今でもそう思う。そのことと関係するかどうかわからないが、「老ける」ことに抵抗がない。禿げるなら禿げよ、腰が曲がるなら曲がれの心境である。世の中、カツラ産業が隆盛し、やれ美肌キープだのなんだのと、若さへの回帰大合唱である。生物学を学ぶ者としていえば、加齢は自然現象であり、美醜とは関係がない。若い肌が自慢になるのなら赤ん坊が一番だ。白髪も禿げもそれなりにいい。なぜこうも世の中は老いに抵抗し、そうすることをよいことのように喧伝するのか、私にはよくわからない。九州生まれの父に育てられたせいか、禿げることは恥ずかしくないが、それを隠そうとカツラをかぶる(あれはかぶるといっていいのか)のは恥ずかしいと思う。
そう思えば、昔はいい老け方をした年寄りがいたと思う。「ああいうふうに歳をとりたい」と思わせる年寄りがいた。今はいない。
まわりくどい「落ち」になるが、モンゴルにはそういう見事な老人がいる。深い皺や、やりとげたと想わせる表情は、若い者の思いを見透かしているようで、魅力がある。ああいう老人を見れば、子供や若者があこがれのような気持ちを持つのが自然だと想う。モンゴルで過ごすと、そんなことも考えさせられる。
どういう訳か大人の皺が好きだった。目尻の皺など実にかっこいいと思った。今でもそう思う。そのことと関係するかどうかわからないが、「老ける」ことに抵抗がない。禿げるなら禿げよ、腰が曲がるなら曲がれの心境である。世の中、カツラ産業が隆盛し、やれ美肌キープだのなんだのと、若さへの回帰大合唱である。生物学を学ぶ者としていえば、加齢は自然現象であり、美醜とは関係がない。若い肌が自慢になるのなら赤ん坊が一番だ。白髪も禿げもそれなりにいい。なぜこうも世の中は老いに抵抗し、そうすることをよいことのように喧伝するのか、私にはよくわからない。九州生まれの父に育てられたせいか、禿げることは恥ずかしくないが、それを隠そうとカツラをかぶる(あれはかぶるといっていいのか)のは恥ずかしいと思う。
そう思えば、昔はいい老け方をした年寄りがいたと思う。「ああいうふうに歳をとりたい」と思わせる年寄りがいた。今はいない。
まわりくどい「落ち」になるが、モンゴルにはそういう見事な老人がいる。深い皺や、やりとげたと想わせる表情は、若い者の思いを見透かしているようで、魅力がある。ああいう老人を見れば、子供や若者があこがれのような気持ちを持つのが自然だと想う。モンゴルで過ごすと、そんなことも考えさせられる。