松尾睦のブログです。個人や組織の学習、書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。
ラーニング・ラボ
『仕事なんか生きがいにするな:生きる意味を再び考える』(読書メモ)
泉谷閑示『仕事なんか生きがいにするな:生きる意味を再び考える』幻冬舎新書
タイトルに惹かれて読んでみた。
精神科医の泉谷氏は、富や成功を追い求めるモードを『ハングリー・モチベーション』と呼び、そうした状態から抜け出し『生きる意味』を考えるべきである、と主張する。
「ハングリー・モチベーションで動いていた人間は、極端な言い方をすれば、「虫」などと同じ行動原理で動いていたようなものだと言えるでしょう。つまり、空腹だからと食糧を求めて動き、危険だからと安全なところに逃げ込む、といったことです」(p.8-9)
この本を読んで一番印象に残ったのは、エーリッヒ・フロムの「受動的な人間」という考え方。
「外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らわす消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ、と言っているのです」(p.34)
少し拡大解釈すると、人間社会の競争といった外発的プレッシャーによって突き動かされた行動は、それが学習を伴うものであっても「受動的」なものとなる。この箇所を読み、自分はかなり受動的な人間であることに気づいた。
では、生きる意味を感じるためにはどうしたらいいのか?
キーワードは「愛」である。ちなみに、愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちであるのに対し、欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちであるという(p. 131)。
「「愛」とは、単に他の人に向かうものだけを指すのではなく、世界の様々な物事や人生そのものにも向けられるもので、対象に潜む本質を深く知ろうとしたり、深く味わおうとしたりするものです」(p. 142)
これは「禅」や「茶道」にも通ずる考え方である。
つまり、競争につき動かされているうちは受動的になってしまうけれど、相手の気持ちに寄り添い、さまざまな現象の本質を知ろうとする純粋な好奇心を持つとき、生きる意味を感じることができるようになる、ということだ。
本書のタイトルは『仕事なんか生きがいにするな』であるが、愛を持って仕事をすれば、やりがいのある仕事になるのではないか、と思った。
タイトルに惹かれて読んでみた。
精神科医の泉谷氏は、富や成功を追い求めるモードを『ハングリー・モチベーション』と呼び、そうした状態から抜け出し『生きる意味』を考えるべきである、と主張する。
「ハングリー・モチベーションで動いていた人間は、極端な言い方をすれば、「虫」などと同じ行動原理で動いていたようなものだと言えるでしょう。つまり、空腹だからと食糧を求めて動き、危険だからと安全なところに逃げ込む、といったことです」(p.8-9)
この本を読んで一番印象に残ったのは、エーリッヒ・フロムの「受動的な人間」という考え方。
「外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らわす消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ、と言っているのです」(p.34)
少し拡大解釈すると、人間社会の競争といった外発的プレッシャーによって突き動かされた行動は、それが学習を伴うものであっても「受動的」なものとなる。この箇所を読み、自分はかなり受動的な人間であることに気づいた。
では、生きる意味を感じるためにはどうしたらいいのか?
キーワードは「愛」である。ちなみに、愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちであるのに対し、欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちであるという(p. 131)。
「「愛」とは、単に他の人に向かうものだけを指すのではなく、世界の様々な物事や人生そのものにも向けられるもので、対象に潜む本質を深く知ろうとしたり、深く味わおうとしたりするものです」(p. 142)
これは「禅」や「茶道」にも通ずる考え方である。
つまり、競争につき動かされているうちは受動的になってしまうけれど、相手の気持ちに寄り添い、さまざまな現象の本質を知ろうとする純粋な好奇心を持つとき、生きる意味を感じることができるようになる、ということだ。
本書のタイトルは『仕事なんか生きがいにするな』であるが、愛を持って仕事をすれば、やりがいのある仕事になるのではないか、と思った。
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